まぬけじる日記

もうすぐ不惑を迎える男のまぬけな日常を描いた雑記です。Twitter:@manukejiru

ハイヒールも革靴も葬り去るのは容易でない

 自分では履いてみたことがないので分からないが、ハイヒールやらパンプスやらといった女性モノの靴というのはとんでもなく履きづらいらしい。巷では仕事中にそんな履きづらい靴を履かせるなというムーブメントが巻き起こっているようである。今までハイヒールなんて背を高く見せたい女性が好きで履いているもんだと思っていたが、どうもそういうことではなかったらしい。

 ハイヒールを履かなければ成り立たない商売なんて世の中にそれほど多くないはずなので、履きたい人は履けばいいし、履きたくない人は履かなければいいというだけのことである。実に当たり障りなくつまらない意見だが、僕としては同じことを男性用の靴にも当てはめたいと考えているのである。

 ハイヒールに比べて注目度は薄いが、男の革靴というのもあれはあれで履きにくいものである。
 
 まず革靴は走りにくい。革靴なんて履いて走るもんじゃないというお叱りもあるだろうが、僕のような締切ギリギリで行動する遅刻魔にとって、靴が走りやすいか走りにくいかというのは死活問題なのだ。スニーカーを履いていれば大事な商談に遅刻せずに済んでいたのにということが何度となくある。それほど革靴というのは走りにくいのである。革靴を履いたウサイン・ボルトと、スニーカーを履いた僕が競争をしたら、おそらく勝つのは僕ではないかと思うほどである。

 次に革靴は通気性が悪い。ハイヒールの場合も靴ずれや外反母趾といった健康被害があるようだが、革靴を履き続けたことによって水虫になってしまうというのもまた一種の健康被害であろう。靴ずれや外反母趾も労災認定されるのであれば、水虫もセットにしていただきたいものである。企業の方も水虫に労災を支払わなければならなくなったら溜まったものではないから、嫌なら革靴なんぞ履かなくて良いということになるはずである。

 ここまで書いてはたと気づいたが、果たして僕は誰に強制されて革靴を履いているのだろう。考えてみれば、僕に対して「社会人なら革靴を履きたまえ」と命令してきた人は一人もいない。周りのおじさん達が革靴を履いているのだから、履かなければいけないものなんだろうと勝手にそう思い込んで履いているというのが正解である。良くもまあそんなあやふやな遵法意識で15年以上革靴を履き続けてきたものだ。おそらく最近の脱ハイヒールムーブメントも似たようなものなのではないか。
 
 憶測に過ぎないが、「他の女性社員が履いているから自分も履かなければならないと思っていた」というのも「強制された」の範疇にカウントされているのではなかろうか。今までは「強制されている」と思い込んでいたものでも、やめてみたら案外誰にも咎められなかった、ということもあるのかもしれない。まずはこっそり革靴を履くのをやめるという個人レベルの運動から始めていくべきなのかもしれない。

 そう思って試しにスニーカーを履いてみたが、あまりファッション感覚が発達していない自分でも、スーツとスニーカーの組み合わせというのはイケてないなあと思う。スニーカー以外の楽な履物としてはビーチサンダルやクロックスなども考えられるが、スーツとの相性の話になってしまうとスニーカー以上に考えるだけ無駄である。スーツと革靴というスタイルが何十年も定着しているのは、それだけの理由があるからなのだろう。そうであるならば、ハイヒールや革靴を廃止したければ、それと組み合わせられるものについても見直されるべきなのだろう。

時代遅れの深煎り好きにおすすめしたいセブンイレブンの「高級キリマンジャロブレンド~青の贅沢~」

 コーヒーが好きでよく飲んでいるが、こだわりを持ってコーヒーと向き合っている人に対しては相容れない何かを感じている。

 自分はコーヒーなんてとにかく飲んだ時にガツンと来るほどの苦さがあればそれで良いと思っているクチである。

 先日、なにかにつけて野暮ったい地元の駅の商店街には似つかわしくない、綺麗で洗練された感じのコーヒー屋がオープンした。

 店主が厳選したコーヒー豆を売るだけでなく、奥さんが淹れてくれたコーヒーをその場でいただくこともできるというスタイルである。

 せっかくだからプロが淹れた美味しいコーヒーを飲ませてもらおうと、「とにかく一番苦い豆で一杯淹れてください」と豪快に注文をしたところ、「いや、うちは浅煎りしか扱ってないので苦いだけのコーヒーというのはないんですよ」とのたまわれた。

 申し訳無さそうに言うのであればまだ救いようもあるが、「味や深みも解せずに単に苦いだけのコーヒーを求めるとはなんたる野蛮人だろう」とでも言わんばかりに若干上から目線でそう言うので、その態度に腹が立って仕方がない。

 「それじゃあ浅煎りだけじゃなく深煎りも取り扱えばいいだろ」と言おうとも思ったが、放っておくと薀蓄が五倍くらいになって返ってきそうだったので、黙って引き下がることにした。こちとらなぜ浅煎りは苦くないのかという知識すら持ち合わせていない程度のコーヒー愛好家なので、言い争いをするだけ無駄なのだ。

 あとで聞いてみると、当節は豆本来の味を楽しめるので、浅煎りのコーヒーが流行して人気を集めているようである。どうも浅煎りのコーヒーは苦味よりも酸味が強くあらわれる特徴をもっているらしい。

 自分が知らないうちに、コーヒーは苦い飲み物ではなく、酸っぱい飲み物に変化を遂げてしまったようだ。俺もついに時代の変化についていけない年寄りになってしまったのか、と絶望的な気持ちになってしまった。コーヒーは苦いからコーヒーなのであって、酸っぱさが先にくるコーヒーなんてコーヒーじゃない別の何かである。酸っぱいものが飲みたければ梅昆布茶でもレモン水でも飲んりゃいいのである。

 時代の変化に気付いた時に、なんとかその変化に付いていこうという人はまだ救いようがある。その逆に、時代の変化についていけなくてもいいから、同じように変化に付いていけないモノとだけ付き合おうという人は本当の年寄りになってしまう。残念ながら自分は後者に属しているようだった。

 以来、コーヒーを買う時は、まずそれが深煎りであるかどうかを確認するようになった。しかし、大抵の場合は最初からコーヒー豆の煎り具合について説明がなされることはない。確認を怠ってしまったため、不本意ながら酸っぱいコーヒーをズルズル飲むなんて憂き目を見た日も一度ではない。あの時感じた酸味はコーヒーの味だったのか、涙の味だったのか、はたまたその両方だったのだろうか。。。


 いまや時代の波に呑まれてしまった深煎りコーヒーを追い求めること数ヶ月。私が再び深煎りコーヒーに巡り合ったのは、実に意外な場所であった。何気なく立ち寄ったセブンイレブンにおいて売り出されているセルフサービスのコーヒー「高級キリマンジャロブレンド~青の贅沢~」の広告が目に留まったのである。

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セブンイレブン ホームページより抜粋


 ご覧の通り、このコーヒーは今の時代には珍しく、深煎りであることを前面に押し出している。正直に告白すると、無知で世間知らずの私は、このコーヒーを飲むまで、コンビニのコーヒーというものをナメていた。どうせ安いだけで、味は二の次三の次なのだろうと。Lサイズでも150円足らずなので、騙されたと思って飲んでみると、これぞ私が追い求めていた苦味、そしてコクであると感動してしまった。冒頭に述べたように、飲んだ時にガツンと来る苦さがこれにはある。下手なチェーン店のコーヒーどころか、安易な流行に乗せられている小賢しい自称専門店よりもよほど上質なコーヒーを提供してくれるセブンイレブンの企業努力には頭の下がる思いである。

顔のイボに悩んでいるおっさんは今すぐ化粧水を塗りたくれ

 ある時、顔を洗っていたら、アゴのあたりに何やら違和感があったので、よくよく鏡を見てみると、白くて小さなデキモノがあるのを見つけた。

 どうやらこういうデキモノは、持ち主が二十歳を過ぎたらニキビとは呼ばずに吹き出物と呼ばなければならないと法律で決まっているらしい。もともとは同じものなのに、ハマチがブリになったりニキビが吹き出物になったり、せわしないことである。

 アゴに吹き出物ができるくらいのことで取り立てて騒ぐほどでもなかろうと思って放置していたが、吹き出物の方も存在感をアピールしたいのか、しばらく見ない間に大きく成長してしまった。まるで親戚の子供のようだ。よくよく注視してみると、その吹き出物は表面が滑らかではなく、例えるならばイソギンチャクのように無数の繊維が結集したような感じで少しグロテスクである。

 こうなってしまうと僕の方も吹き出物が気になってしまい、手持ち無沙汰になるとついつい吹き出物をいじくるようになってしまう。それが裏目に出たのか、吹き出物はどんどんサイズを増すばかりである。どうやら乳首と男性器以外にも、弄れば弄るほど大きくなるものがもう一つできてしまったようである。。。などと感慨に耽っている場合ではない。

 このまま放置しておくのは百害あって一利なしである。一念発起して、人差し指と親指の爪をうんと鋭くしておき、一思いに吹き出物をちぎり取ってやったところ、出血量が想定を大幅に上回ってしまい、4、5枚のティッシュが真っ赤に染まる事態となってしまった。しかもTPOをわきまえずに、社外での打ち合わせの場でそれをやってしまったため、先方も目の前の男がアゴの下からだらだら血を流しながら説明をしたり聞いたりしている様に若干引き気味の様子であった。とはいえ、これでついに数週間僕を煩わせていた吹き出物ともお別れである。勇気を出して毟り取って良かったなあ、という達成感もあり、この時ばかりは僕の気分も晴れやかであった。

 ところがそんな晴れやかさも長続きせず、しばらくすると、いつかどこかで感じたような違和感が再びアゴの下に感じられるようになり、さらに時間が経つと、同じところに再びイソギンチャクが居座るようになってしまったのである。こちらとしては既に一度強制退去させているイソギンチャクなので、前回の要領で再び毟り取ってやったのだが、しばらくするとまたイソギンチャクが復活してしまう、といういたちごっこの様相を呈していた。思うに、このイソギンチャクには核のようなものがあり、それを完全に除去しない限り、イソギンチャクは育ち続けるのだろう。まるでドラゴンボールのセルである。

 どうやらイソギンチャクを排除するのは難しそうだということが判明したため、僕は融和路線に切り替え、このイソギンチャクと共存する道を歩んでいくことを決意した。まあドラゴンボールのセルに比べれば、人間を吸収して街をひとつ廃墟にするなんてことはないので穏やかなものである。今まではある程度の大きさに達すると爪で切除していたが、もしかするとまだ成長の余力を残していて、もうしばらく育てると知能が発達し、話でもしはじめるかもしれない。そんな風に考えると、あれほど憎かったイソギンチャクにも段々と愛着が湧いてくるというものである。

 
 こうしてイソギンチャク愛護主義者に転身した僕は、一ヶ月半ぶりに床屋に行き、散髪をした後にヒゲを剃ってもらっていると、理容師さんもイソギンチャクを除けながらヒゲを剃るのに骨が折れるようだった。万一手元が狂ってイソギンチャクを剃り落としてしまったら大変な流血騒ぎになって面倒だと感じていたのだろう。理容師さんは、もう二度とこんな厄介やヒゲ剃りはしたくないと思ったのか、僕に顔の肌のケアをするようにアドバイスをしてくれた。話を聞いてみると、市販の化粧水なんかで保湿をしたら吹き出物も抑えられるとのことである。

 早速Amazonで評判の良さそうな男性用の化粧水を購入し、就寝前と起床後にぺちゃぺちゃと顔に塗りたくっていたら、イソギンチャクのサイズがみるみる小さくなっていき、一週間ほどで消滅してしまった。今まで僕はどちらかというと、「女の腐ったのじゃあるまいし、男がお肌ケアなんかできっかよ」というスタンスであったが、男女差別は良くない。これからは男も積極的に保湿をしていくべきである。

 最後に、おまえはイソギンチャク愛護主義者ではなかったのか、というツッコミもあるかもしれないが、あれは排除することができないならば共存するしかない、という消極的なスタンスであり、根絶する手段があるのならば容赦なく根絶するべきである。今となってはイソギンチャクにはなんの愛着も未練もない。はっきり言って邪魔だし。

 

 

弱さをさらけ出せるようになった清原を応援したい

 かれこれ20年くらい昔の日本には、「清原和博こそ男の中の男」という空気が確かに存在していた。

 当時の清原といったら、金のネックレスに頭は五厘刈り、どこの日サロか知らないが、黒光りするほど焼けた身体はレスラー並にビルドアップされていた。正直ヤクザでもそんなヤクザっぽい風貌の奴はいねえよと思うほどである。

 マスコミもそんな清原を称して「番長」だの「男・清原」だの持ち上げるし、当の清原も満更でもなさそうに、長渕剛をBGMにして、元木なんかの腰巾着を引き連れて幅を利かせていた。

 当時学生であった僕は、こうした風潮を実に苦々しく思っていて、軽薄そうな輩が「男なら清原みたいになりたいよな」などと盛り上がっているのを聞く度に、「一体清原のどこが男らしいんだ。どいつもこいつも全く本質を見損なってるな」と憤懣を抱いたものだった。

 別に清原に対してなんの恨みも持っていない僕がこのような怒りを感じていたかを解説すると、僕の目には清原が男らしいようには1ミリも見えなかったからである。

 一例を挙げると、デッドボールを当てられた際、ワザと当てられたのでもない限りは黙って一塁まで歩くのが男らしいとされる行為ではないかと思う。それに対し、清原はデッドボールを当てられるや、物凄い形相でつかつかとマウンドに歩み寄り、ピッチャーを威嚇するのである。それも誰に対してもそうするのではなく、若手投手など自分の番長キャラが通用しそうな相手にのみそうするのである。例えば彼の社会的なキャラなど解しない体格の良い外国人ピッチャーにぶつけられた際などは、やや不満げな表情はするものの、マウンドに向かっていくことせずに、憮然とした感じで一塁まで歩いていくのみである。

 まあ身体が資本である野球選手がデッドボールを警戒する気持ちも分からなくもない。しかし、ストレートで勝負してこない投手に対して恫喝をもって接するというのは弁護の余地がないと思う。阪神の藤川のように、ストレートを武器とする投手に対してストレート勝負を要求するのは分からないでもないが、そういうわけでもない投手にまでストレート勝負を強制するのはいかがなものだろうか。
 
 そういった経緯もあり、僕個人は清原を男らしいとは感じておらず、むしろ精神的な脆さを抱えた、弱い人なのではないかと感じていた。彼が好んでコワモテ系の風貌をしているのも、取り巻きを引き連れているのも、相手も恫喝するのも、彼自身の弱さの現れではないかと。今思うと、僕の苛立ちは清原本人というよりも、彼の弱さに気付かず、それどころか「男の中の男」みたいな扱いをする鈍感な世の中に対して向けられていたのかもしれない。
 
 世の中なにが気の毒だと言って、実像とは正反対のパブリックイメージをつけられるほど気の毒なことはない。清原本人も、ある時点で「俺はこんな男じゃない」と言うことができればまだ救われたのかもしれないが、引退するまで自身の虚像から逃れることができなかったようである。
 
 結局、清原は違法薬物に手を染めて逮捕されてしまうわけだが、彼が薬に手を出したのは、「男の中の男」という実像とはかけ離れたキャラを演じることに疲れてしまったというのが一因なのではないだろうか。そうなると、清原を犯罪者に追い込んでしまったのは、無責任にも彼に変なキャラをつけて囃し立てていた奴らひとりひとりに責任であると言ってよい。

 逮捕されてからの清原は、取材に対して「人前が怖い」と告白するなど、自分の弱さを表現するようになっている。従来のファンの目には頼りなさげに映るかもしれないが、これは清原本人にとっては進歩なのではないか。少なくとも自らの弱さを認め、それをさらけ出すことができる強さを手に入れたわけだから。

散らかす奴より綺麗好きな奴の方が偉いという風潮が気に食わない

私は整理整頓があまり得意な方ではない、というかむしろ超絶苦手な方なんですが、
綺麗好きな人って僕みたいな整理整頓できない奴のことを下に見てやしませんかね。

そりゃ単なる被害妄想だと言われればそれまでなんですが、最近妄想ばかりとも言えないことがありましてね。

今から少しそのことをお話したいと思います。

例えばオフィスの机あるじゃないですか。

綺麗好きな人の机を見ると、必要最低限のものしか乗っていないわけですよ。
例えばパソコンとペンケース、そしてファイル収納用の箱なんかがあってそれで終わり。

片やこっちの机を見ると、3ヶ月前くらいにもらった資料とか郵便物がそのまま出しっぱなしになっていたり、文房具なんかも定位置を持たずに鉛筆と消しゴムが机の左端と右端に離れ離れになっていたりするわけです。

さしずめモノの上にモノが乗っかっている状態で、この机はもともと何色だったのかも忘れてしまうくらいです。私からしてみりゃ机の天板の色が見えること自体、奇跡みたいなことですよ。出社して自分の席についた時に、自分の肘をどこに置いたらもんやらと困ってしまうこともしょっちゅうです。

それでも何がどこにあるかは概ね自分の頭の中に入っているんだから、大した問題はないと思っているんですがね。
そりゃどんなものでもどこにあるか瞬時に分かるのかと言われたら困りますよ。
でも大方の見当はついてるんだからそれで差し支えないじゃないですか。

飽くまで個人の価値観なんですけど、私は身の回りが雑然としていた方が落ち着くんですよね。逆に整理整頓されていることの方が自然の理に反しているっていうか。
混沌とした世の中でどうバランスを取りながら生きていくかっていうのが私たち人間のテーマみたいなとこあるじゃないですか。
それを忘れないように敢えて身の回りを雑然とさせているっていうところもあります。
ってこれは屁理屈が過ぎましたかね。

これだけ書いたら僕がどれほどだらしのない男なのかってことがお分かりいただけたと思いますが、こんな僕でもだらしなくするのは自分の領土までという自分なりのルールは通しているつもりです。

いくら自分がだらしないからって、お隣の領分まで犯しちゃいけない。
日本の周辺諸国にもこのくらいの心意気でしてもらいたいもんですよ。
こんな風に私は私なりにきちんとやっているつもりなんですが、綺麗好きな人にはそれが伝わらないのかねえ。

身の回りを綺麗にするのも散らかすのも、結局はその人たちがそれぞれの価値観に基づいて勝手にやっていることだと思うんですよ。国同士が互いの内政には干渉しないのと同じことで、隣の人が整理整頓してようが、散らかしていようが、そこは干渉しないでおきましょう、ってわけにはいかないもんですかねえ。

こっちもわざわざ綺麗好きな人を捕まえて「さあ、一緒に散らかそうよ」なんて布教活動はしないでいるわけだから、そっちも同じような態度で接してもらうわけにはいかないもんなんだろうか。

どうも綺麗好きな人にはこの理屈が伝わらないらしくて、視界に散らかっている様子が入るとそれが気になっちゃって仕方がないらしいんですよね。向こうが口を出してくるだけなら、こっちも生返事で応じていれば済むことなんだけど、そういう態度があんまり長く続いてると向こうも腹に据えかねて実力行使に出てくるから参っちゃうよな。

実力行使って何かというと、私がいない隙を狙って少しずつこっちの机を整理したりしてきやがんの。多分良かれと思って私の机を整理してくれてるんだろうけども、こっちとしてはそういうお節介なことはよしてもらいたいんだよなあ。向こうの頭には「散らかっているよりも綺麗な方が良いに決まってる」という固定観念があるのかもしれないけど、世の中そういう人ばかりじゃないんだよってことを分かってもらいたいもんです。

決してCA好きというわけではないけれどもアルコール検査に引っかかったCAさんを精一杯擁護したり責任転嫁したりしてみる。

全日空のCAさんが搭乗直前にアルコール検査に引っかかって搭乗が許可されなかったってニュースでやってたけどさ、なんでも、そのおかげで4便ほど遅れが出たらしいんだが、全日空って去年も乗務員が酒飲んで問題になってたよな。

もっともあれは機長だったっていうからよっぽどタチが悪い話だけどな。

あの時、搭乗前に酒飲んじゃだめだろってさんざん怒られたのに、なんでまたそのほとぼりも冷めないうちに酒飲んじゃうかねえ。

航空会社ってのはよっぽど酒好きの集まりなんだろうか。それだったら俺の爺さんなんて航空会社の社長が勤まっちゃうよ。

なにしろ酒飲んで酔っ払っては誰かれ構わず相撲をけしかけて手当たり次第投げ飛ばしてたっていう逸材なんだから。

それからこのニュースが原因で、「CAさんってのは酒好き多いんだろ?だったら一杯付き合えや」みたいなことを言う、俺みたいなスケベなおじさんがどんどん出てくる予感もするな。まあ俺は怖くて飛行機乗れないから、その心配はないけどな。

どうやらこのCAさんは1月3日の朝に福岡から成田に飛ぶ飛行機に搭乗する予定だったらしいんだけど、それ聞いて俺は「ああ、これは酒飲んじゃっても仕方ないかな」って思ったね。

だって福岡って博多のあるとこだろ?
年が明けたばかりの寒い夜にモツ鍋やら水炊きなんかをつついてたら、そりゃ焼酎の一杯や二杯やりたくもなるわな。
シメに屋台のラーメン食うんだって、酒が入ってこそ美味いってもんだよ。

いくら翌朝に自分が搭乗予定のフライトが控えていたとしてもだ、目の前にこれだけ酒が飲みたくなるものが揃っていたら、この俺でも酒の誘惑に勝てるかどうかは分かんねえ。むしろよく二杯で我慢できたもんだよ。

1月3日のまだおめでたい時期なんだから多少のことは大目に見てやんなよ。4日だって土曜日なんだから一刻一秒を争うビジネスマンなんかそれほど乗っちゃいないよ。せいぜい週明けから仕事だから少し早めに帰省先から東京に戻る奴らがちょっと困ったくらいだろ?

そもそも、全日空もだらしがねえじゃねえか。
CAさんの一人や二人、不慮の事故で搭乗できなくなることもあらあな。
そういう場合に備えて控えのピッチャーの一枚や二枚、今どきどんなに弱い野球のチームだって用意してるぜ。

そもそも、予備のCAさんがいないんなら、どうしてアルコール検査なんかやったんだい。検査さえなかったら、そのまま何事もなく予定通りに便飛ばせたろう。ちょっとくらい酔っ払ってた方が緊張が緩んで、いざって時に機転が利いて役に立つかもしれないし、何より機内の雰囲気が和んでいいんだよ。

まあ今はどこも人手不足だって言うからなあ。そんなに人がいないんならペッパーくんにでもCAやらせてみたらどうなのかね?国内線で飲み物運ぶくらいならペッパーくんでもやれなかないんじゃないの?ペッパーくんが不具合起こしたり、飛行機が落っこちそうな時だけ人間のスタッフが出てきて対応すりゃあいいんだよ。

まあそんな非常事態に満を持して出てきたのが酔っ払った乗務員だったらシャレにもならないけどな。

そんな飛行機、俺は死んでも乗りたくねえ。

ルカ・ドンチッチのプレーを通して「バスケIQ」とは何なのか考える

 バスケットボールの世界には「バスケIQ」という用語がある。バスケットボールは何よりも三次元的な高さが物を言う競技ではあるが、時としてこの「バスケIQ」の高い低いが試合の行く末を左右することがある。しかし、実社会においても「IQ」というのがどういうものなのかよく分からないのと同様に、具体的にどういうことを「バスケIQが高い」と評するのか漠然としているところがある。

 そもそも「バスケIQ」というのは、ただの「IQ」とは異なるものなのだろうか。バスケIQの高い選手=IQの高い人間という公式は成り立たないのだろうか。本記事の都合上、答えはノーであると言いたい。なぜならば、現役選手で言うと、ゴールデンステイト・ウォリアーズのドレイモンド・グリーンや、昔懐かしい選手で言うと、シカゴ・ブルズの黄金期を支えたデニス・ロッドマンといった選手は、バスケIQが極めて高いとされているのにもかかわらず、実際のIQは極めて低そうだからである。というのは半分冗談だが、バスケットボールは展開が非常に速いスポーツなので、頭で考えているとに試合が三手も四手も先に進んでしまう。バスケIQとは、頭もさることながら、細胞レベルの反射神経も大きく関わってくるが故に、普通のIQとは趣を異にすると考える。

 「バスケIQの高い選手」の代表例として、ルカ・ドンチッチというダラス・マーベリックスに所属する選手を紹介したいと思う。彼はNBAに入ってわずか2年目の選手だが、19歳という若さでNBA入りした昨季には新人王を獲得し、今シーズンもダラス・マーベリックスの中心選手として、去年は西カンファレンス14位という下から数えた方が早かったチームを4位という高順位に押し上げている。

 彼の凄さは個人成績にも現れていて、新人王獲得した昨季は21.2得点、7.8リバウンド、6.0アシストという主要な部門で軒並み好成績を残している。なんでもルーキーシーズンに平均20得点、5リバウンド、5アシスト以上の成績を残した選手はNBAの長い歴史の中でも彼を除いて4人しかいないそうである。その4人の中には、マイケル・ジョーダンレブロン・ジェームズという超レジェンド級の選手が名を連ねている。さらに驚くべきは、2年目のシーズンである今季は、現時点で28.8得点、9.5リバウンド、9.0アシストとどの部門でも成績を伸ばしているばかりか、もう少しで主要3部門全てで2ケタの成績を残してしまうのではないかという勢いである。そのこと自体は既にラッセル・ウェストブルックが3シーズン連続で達成してしまったので、今となっては有難味が失せてしまった感があるが、それまでは55年もの間、誰も成し得なかった記録であり、おそらく再びこれを記録する者は現れないであろう、とさえ言われていたものである。

 加えて言うのであれば、ウェストブルックは靴の中にジェットエンジンでも仕込んでいるのではないかと思わせるくらい異次元の俊敏性と瞬発力を持ち合わせている。方やドンチッチはどうかと言うと、身長201cm、体重104kgとNBA選手のなかではごく標準的な体格であるうえ、画面を通して見る限りではあるが、他の選手と比較して抜きん出て速いわけでもないし、跳躍力もないわけではないが、標準偏差の域内という感じである。

 そうなると、なぜドンチッチはウェストブルックに肩を並べられるほどの成績を残せるのか?という疑問が生じるわけだが、彼には身体能力の差を補って余りある「バスケIQ」の高さがある。それではわ具体的に、彼のプレーのどのあたりからバスケIQの高さが垣間見られるのか具体的に説明していきたい。

 ドンチッチの得意なムーブのひとつに、ステップバックからの3Pシュートというのがある。彼は卓越したシュート力に恵まれているが、守る相手もそれをよく知っているだけに、楽にシュートを打たせないよう距離をつめてガードされることになる。そこでドンチッチはドリブルで切り込むと見せかけてから、大きく後ろに下がって相手との間合いを十分に取ってからシュートを放つのである。このムーブに象徴されるように、彼は相手との間合いの取り方がとても上手である。間合いを詰める時は相手との強い当たりも辞さずに詰めていき、果敢にファウルを貰いにいくし、逆に引く時には常人ならバランスを崩しそうなくらいのステップバックをしてシュートが打ちやすいよう十分なスペースを確保する。バスケIQの高さの一つの要素として、相手や状況に応じて必要な間合いを取ることができるところが挙げられそうである。

 また、ドンチッチはとても広い視野を持っており、ボールを持っている時に多少相手に激しくディフェンスされていても、味方の空いている選手にパスを出すことができる。しかも、どこにボールを落とせば受け手がパスを取りやすいか、取った後にシュートが打ちやすいかがきちんと考慮されている。彼は前述の自分とディフェンダーの間合いだけではなく、どんな時もコート全体に目を配り、空いているスペースを見つけ出すのがとても上手いのである。彼のアシスト数の多さは、そのあたりの能力に裏打ちされているものだろう。

 上に挙げたようなプレーを可能にしているのは、ドンチッチの安定した精神が土台にあると見ている。彼はどんな時でも、それがまだ余力のある試合の序盤であろうが、緊迫した終盤であろうが、15年目のベテランような落ち着きを持ってプレーをしている。彼はまだ若いとはいえ、十代の頃からユーロリーグでプレーしておりプロ経験は豊富であるのだが、それだけでは彼の精神的な安定感、落ち着きっぷりを説明するのは不十分であろう。彼がどのようにしてあのような冷静さを体得するに至ったのかを知るにはさらなる調査が必要である。

 ここまで「バスケIQ」とは具体的になんなのか、ドンチッチのプレースタイルを通して思いつく限り挙げてみたが、もちろんドンチッチ以外にもバスケIQの高い選手は数多くおり、そのバスケIQの高さを示す特性は選手の数ほどあるわけで、当然本稿だけでバスケIQの全てを網羅できたわけではない。しかし、これを機にあまり具体的に語られることがなかったバスケIQについてより深く考えるきっかけになればと思う。

 そして、仮にあまりバスケットボールやNBAについて詳しくない人に本稿をお読みいただいたのであれば、とりあえずドンチッチのプレーを見たら、「バスケIQたけーな」と言っておけば間違いないことを私が請け負うものである。

寅さんは好き勝手に生きているくせになぜ「男はつらいよ」なのか

 今年の暮れに「男はつらいよ」の最新作が公開されるという。主役の車寅次郎を演じる渥美清が亡くなってから20年以上経っているのに、このタイミングで最新作を作るのかかとも思ったが、かつての寅さんのファンだった人達も、いつお迎えがくるか分からないので、その前にもう一度寅さんの復活をこの目で見たい!という声なき声に山田洋次監督が応じたという形なのだろうか。もしかすると山田洋次監督自身も遺作を作るつもりで撮影に挑んだのかもしれない。

 僕の飲み仲間のひとりに60歳手前のおやじがいるのだが、この人も一緒に酒を飲んで酔っ払うたびに、酒臭い息を吐きながら、「僕は寅さんになりたかった」と話す。この人は、たまに周りの女性に軽いセクハラ発言をして危なっかしいところもあるが、表向きにはお堅い職業に就き、二人の子を持つ良き家庭人であると言って良い。そんな人でも、仕事や家庭の軛から逃れて、寅さんのように自由に生きたいという衝動に駆られることもあるのだろう。というより、むしろそのような人々こそが「男はつらいよ」という映画を、車寅次郎という男を愛し続けてきたのではないか。車寅次郎という男は、仕事や家庭の責任から逃れられない昭和の男たちにほんの一瞬訪れる逃避願望を具現化した存在なのかもしれない。

 車寅次郎という男は、定職を持たず、日本中を旅しては、お祭りや観光地に顔を出して啖呵売をしている。行く先々で綺麗な女性に惚れてしまうのだが、大抵は恋に破れて逃げるようにして次の旅に出てしまう。身寄りは妹のさくらと、叔父さん夫婦がいるばかりで、叔父さんの営む団子屋に顔を出しては自分の恋愛沙汰に巻き込んだり、金を無心したりしている。

 一言でいえば駄目人間または社会不適合者である。車寅次郎がこれだけの男なのであれば、誰にも相手にされずに路頭に迷って野垂れ死にするのだろうが、話をしてみれば面白いし、変な愛嬌があるのだから逆にタチが悪い。結局は旅先で知り合った人や、叔父さん叔母さんや妹、挙句の果てには甥っ子にまで助けられてなんとか生きているという次第である。

 これだけ自分勝手に生きておいて、なにが「男はつらいよ」なのだと言いたくなるが、このタイトルは主役の車寅次郎に宛てられているのではなく、車寅次郎に自分の思いを託すことでしか自由になれた気がしない人たちに宛てられたものなのではないだろうか。

 話は変わるが、寅さんのような人は昭和のような時代よりも、今のような時代の方が生きやすいのではないかとも考える。インターネットのおかげで、寅さんのように定職に就かずに旅をしながら飯を食っている人もそれなりに出てきている。例えばカメラ一台持って啖呵売なんぞをやっている様子や、日本各地の祭りの光景なんかに寅さん節の実況をつけたりしてYoutubeにでもアップしたらかなり多くの視聴数を稼ぐことができるのではないだろうか。

なぜグレタ・トゥーンベリさんのことを腹立たしく思うのか

 グレタ・トゥーンベリというスウェーデン人の16歳の少女が、国連の気候行動サミットでスピーチしているのを見た時、「なんかすげえ子が出てきたな」と思った。実に頭の悪い感想である。「すげえ」という言葉はポジティブにもネガティブにも取れるが、この場合の「すげえ」はややネガティブ寄りの「すげえ」である。「すげえ」の後ろに「面倒くさい」という言葉を補足すると当時の僕の心情をより正確に表現できると思う。依然として頭の悪さを払拭できていないけれども。

 あの演説でグレタさんが非難していたのは、先進国の首脳や企業のトップだけではなく、全ての大人が対象である。つまり、普段クーラーや暖房をつけっぱなしで寝てしまったり、蛇口から水を出しっぱなしで歯を磨き、ところかまわずゲップをしたり屁をこいたりしているこの僕も確実に彼女の標的に含まれている。

 グレタさんのお説教にも似た怒りの演説を聞いていると、これまでの自分のライフスタイルが全否定されているような思いがして実にいたたまれない。ついつい心の中で自分が背筋を伸ばして正座してしまいそうになる。いい大人なんだから少しは反論できないのかとも思うが、彼女の言っていることは全くの正論につぐ正論なので、情けないことに言い返す言葉が思い浮かばない。女子の正論というのは誠に厄介なものである。中学校の帰りにジャンプを買っていたのを学級委員の女子に見咎められ、一切の言い逃れも許されず、徹底的に問い詰められ、人格を否定された苦い記憶が甦ってくる。これがテレビ画面から伝わってくる国連の様子だったからまだ良かった。グレタさんがある日いきなり僕の家に乱入してきて、国連のスピーチのような説教を一対一で懇々とされたら僕は膝から崩れ落ちて泣いてしまうかもしれない。

 ネットの反応を見ていると、グレタさんのことを「面倒くさい」と考える人は一定数いるようである。おそらく、僕と同様に、己がこれまでに環境のことを省みずにやらかしてきたあれこれを咎められているような錯覚に陥るのであろう。「面倒くさい」どころか「生意気だ」とか「いい加減黙らせろ」などという非難中傷の声までも聞こえてくるが、彼らの発想のスタート地点は僕と同じで、より過激な延長線上にいるだけのことに過ぎない。やはり世の中で何が一番腹が立つといって、自分が目下と思っている者から図星を突かれることほど頭に来るものはない。よもや16歳の小娘に自らの環境問題に対する無関心だったり、環境によろしくない行動を取ったことを責められようとは。熱帯夜にクーラーの温度を下げる時、スーパーでマイバッグを忘れた時、食べきれない肉を残す時、「これは地球環境に良くなかったな」とかすかな後ろめたさを感じながらも、己の弱さが故にそれを正当化してしまうのである。それを年端も行かない若造から指摘されたら「うっせえよ、こっちだって分かってんだ」と逆ギレしてしまうのも分からないでもない。

 グレタさんのスピーチを聞いて、気分を害したり、腹を立てたりした大人は大勢いるが、一方で、グレタさんが望むように、これまでの自身の行動を悔い、環境保護のための行動を起こした大人が果たしてどれほどいるだろうか。おそらく、後者は前者に比べて圧倒的に少ないのではないか。グレタさんは、これから大人になるまでの過程において、正論で相手を追い詰めることは、相手の行動を改めさせることにあまり有効ではないどころか、かえって逆効果となることを学んでいくのだろう。

NANGAのオーロラダウンジャケットを着たら雪の札幌も余裕だった

 今年の冬はダウンジャケットを新調することにした。昨冬まで着ていたダウンとは、もう10年近くの付き合いになるが、買ったばかりの頃はもっとモコモコしていたように思うが、今では端々から羽毛が飛び出てしまったようで、なんだかペラペラしていて心許ない。せっかくだから多少高くても良いものを買おうと思い、ネットで検索してみると、NANGAという日本の滋賀県にあるメーカーが作ったオーロラダウンジャケットというのがなかなか評判が良いようである。

 どうでもいいことではあるが、僕は「同じものを買うのならばなるべく日本製を買うようにしたい」というゆるいポリシーの持ち主である。評判が良いうえに、日本製ということであれば申し分ない。ただし、NANGAというメーカーについては、恥ずかしながら今までに見たことも聞いたこともないので一抹の不安もある。念の為調べてみると、主にシュラフなどのアウトドア用品を取り扱っている会社とのことである。そりゃ用がなければなるべくおうちで引きこもっていたい僕のような人種に今までご縁がなかったというのも無理のない話である。

 ところで、お目当てのオーロラダウンジャケットには、普通(?)のダウンのほかに、別注品として、焚き火用の仕様になっているものがあることを突き止めた。焚き火仕様って何よ?と興味を持って見てみると、標準的なオーロラダウンジャケットは生地がナイロン製であるところ、焚き火仕様のものは燃えにくい素材を使っているため、焚き火をしている時に火の粉が飛んできても、生地に穴が空いたり、燃え移ったりすることがないとのことである。
 
 特別な生地を使っているだけあって、お値段は焚き火仕様の方が数千円ほど高いようだが、それには構わずに焚き火仕様を購入することにした。上にも書いたように、僕は極めてインドア志向の高い人間である。焚き火をしたことはおろか、マッチをこすったり、ライターで火をつけたりすることすら滅多にないような男である。そんな奴がなぜ焚き火仕様のジャケットを買い求めたのかというと、見た目がツヤツヤしている標準的なダウンよりも、質感がマットな感じで格好良いというただそれだけの理由である。



 注文してから数日後に届いたオーロラダウンジャケットは、思っていたよりもモコモコしておらず、ぱっと見ダウンジャケットには見えないほどである。それでもネットの情報によると、760フィルパワーだというのだから、大したものである。フィルパワーというのが何なのかはよく分からなかったが、700を超えたらそりゃもう大したフィルパワーだということである。

 このように立派なダウンジャケットを買ってしまったものだから、寒いのが大嫌いな僕も冬の訪れが待ち遠しくて仕方なかったが、あいにく今年は暖冬なのか、待てど暮らせどオーロラダウンジャケットの出番がやってこない。そんな不遇な日々を救ってくれたのは、会社からの出張命令であった。行き先は北海道の札幌である。当日の天気予報を見てみると、天気は降雪、気温は氷点下3℃とのことである。オーロラダウンジャケットがデビュー戦を飾るにふさわしい天気ではないか。

 新千歳空港に着いた時はカラリと晴れていた空も、札幌に近づくにつれて次第に暗くなっていき、札幌駅に着いた頃には吹雪といっても大げさでないくらいの雪が降りしきっていた。札幌はその積雪量の多さから、さながら蟻の巣のように地下街が発達し、整備されている。ほとんどの人は屋外を歩く際は地下を使うのだろうが、僕のような雪後進国から来た田舎者は物珍しさのため地上を歩くのである。北海道の人にとっては、雪が降っているのに地上を歩いている人の方がよっぽど珍しかろう。

 どれだけ道民から後ろ指をさされようが、今日はオーロラダウンジャケットの初陣である。ここでその威力を試さなければ、いつどこでそれができるというのだろうか。早速ダウンを身にまとって雪の札幌を歩いてみたが、見事なまでに寒さを感じない。むしろ歩けば歩くほど背中のあたりが暑くなるようである。当日はそれなりに風も強かったが、首元までしっかりガードできるデザインになっているため、冷気が入ってくることもない。前述のとおり、このダウンは焚き火仕様になっているが、このダウンを着て焚き火にあたったら暑くて仕方がないんじゃないかと思うほどである。

 ここから内情を明かすことになってしまうが、オーロラダウンジャケットの効力に意識を向けるよりも、積雪に足を滑らせないように注意を払うことの方に気を取られていたために寒さを感じなかったのではないかという説もある。とはいえ、僕が去年まで着ていたペラペラダウンでは、この吹雪の札幌における徒歩10分間を生き抜くことは到底できず、翌朝には凍死体として発見されていた可能性が高いので、オーロラダウンジャケットはこの冬ダウンジャケットを新調したい人に大いにおすすめしたい一品である。