まぬけじる日記

もうすぐ不惑を迎える男のまぬけな日常を描いた雑記です。Twitter:@manukejiru

真夜中の南武線はスリル&エンターテインメントに満ちている

 JR南武線の治安の悪さというか乗客の質の低さというのはインターネット上でもしばしば取り上げられるものである。試しにGoogleに「南武線」と入力してみると、さすがにいきなりネガティブな予測は出てこないものの、その次にキーボードの「G」を押すと、「ガラ悪い」という単語が出てくるし、「K」を押すと、「客質 悪い」、「臭い」、「喧嘩」など穏やかでない単語が続々と浮かび上がってくる。
 
 どうせ何かを叩くことだけを生き甲斐にしているような口さがないネット民が、小さな瑕疵をあげつらって騒いでいるうちに、南武線に乗ったことすらない連中まで便乗してきた結果、あることないことがまことしやかに取り沙汰されているだけだろうと思っていた。しかし、先日僕が勤務している会社で、わりとガラが悪いとされている年配の社員が「俺あ、なるべく南武線には乗らないようにしてるんだ。なんかおっかねえから。」なんてことを話しているのを聞き、「この人をしてこんな風に言わしめる南武線の恐ろしさというのはどんなものなのだろう」と逆に興味をそそられてしまった。
 
 機会があったらいつか南武線に乗ってみたいものだと思っていると、案外早くその機会が訪れた。出張からの帰りに羽田空港に降り立ち、家までのルートを検索してみると、上から3番目くらいに川崎から南武線に乗るルートが表示されていた。時間は既に夜の10時を回っており、できることなら最短ルートで家に戻りたいという気持ちもあったのだが、この機を逃すと令和のうちに南武線に乗るチャンスは訪れないと思ったため、京急線に乗って一途川崎駅を目指す。
 
 同じ川崎駅といえど、京急川崎駅とJR川崎駅は徒歩5分くらいの距離がある。馬鹿笑いしている学生や、フラフラになっている酔っぱらい達の間を縫うように歩いてJR川崎駅に入ると、改札口の時点で酒の匂いが漂ってくる。南武線のホームはこれから帰宅するであろう老若男女がホームから溢れんばかりになっていた。大半の客が酒を飲んでいたようで、ホームの空気中のアルコール濃度は改札口よりもさらに高いものになっていた。
 
 やがて電車がホームに入ってきて、待っていた客は続々と電車に乗り込んでいく。僕が電車に乗ろうとした時には、どのドアからも乗るのに少し戸惑うほど乗客がすし詰めになっていた。ふと見ると、隣の車両は幾分空いていたので、そっちの方に乗ろうとしたら、車両の床にマルゲリータピザのようなものがぶちまけられており、ガラ空きになった座席には、真っ赤な顔をした酔っ払いが横たわって眠っている。おそらくこいつがマルゲリータピザの作者なのであろう。乗客たちの多くはその様子を遠巻きに、憎々しげな表情をしながら見ているが、2,3名の猛者たちは、その凄惨な光景を間近に見、刺激臭が鼻を突いてくるのにも動じず、座席を死守しているのだから恐れ入る。
 
 僕はその車両を華麗にスルーし、隣の車両に少しだけ空いているスペースを見つけることができた。車両と車両はドアで仕切られているため、隣の車両まではゲロの臭いが漂ってこない。ここに晴れて悪名高い南武線に足を踏み入れることができたのである。川崎の次は尻手といういかにも痴漢の出そうな駅名であるが、電車がこの駅を通過した頃、にわかに激しい揺れに見舞われた。久しぶりの震度4クラスの地震かと思ったら、向こうの方で、ツルツルの頭をした恰幅の良い紳士が派手に地団駄を踏みながら怒声を上げている。怒鳴られた方の紳士も何やら激昂しており、しばらく間口論が続いたが、周りの人々はそれを止めるでもなく、無視するでもなく、笑いながら眺めている。どうやらこの手の口論は夜中の南武線では珍しいことではないらしい。当事者の紳士二人は双方怒り冷めやらぬという感じで、次の駅で電車を降りていってしまった。おそらく日付が変わっても二人の熱い戦いが続くのであろう。
 
 再び車内も静まり、少しだけ混雑も緩和されたかというところに、痩せて青白い顔をした青年が乗り込んできた。彼は随分辛そうな表情で、顔をしかめながら車両のドアにもたれかかっている。やがておもむろに身体を起こしたかと思うと、口からドアに水っぽい液体を噴射し、再びドアにもたれかかってしまった。川崎駅でゲロを避けてこの車両に乗り込んだ苦労が水の泡である。ドアが彼の砲撃を一身に受けてくれたおかげで、僕を含めた乗客に一切の被害がなかったことは不幸中の幸いと言うべきか。青白い顔をした彼は、次の駅で降りていってしまったが、僕は自分が降りる乗り換えの駅まで、まだ刺激臭という二次被害に苦しまなければならなかった。

 ようやく乗り換え駅で電車を降りることができた。僕は青白い顔の男が口から発射した液体を避けながらホームに降り立つ。この20分間足らずの間に起きた数々のイベントに打ちのめされたような気持ちでホームの階段へと向かったが、先程電車を降りたはずの青白い顔の男とすれ違った。彼はまだ気持ちの悪そうな青白い顔で、ふらふらとした足取りで、先程僕が降りたドアに乗り込む。どうやら彼はまだ腹の中にゲロを隠し持っているようで、少しずつ小出しに吐いてはまた別の車両に向かっているようである。彼の背中を見送りながら、僕は「やっぱ南武線ってすげーわ」という心の声が口から漏れ出てくるのを防ぐことができなかった。
 
 こうして、今日もまた南武線の悪口がネット上にひとつ増えるわけである。

技能実習生の訓練所で日本企業経営者の本音を見た

 ベトナムミャンマーなどの東南アジア諸国から日本に戻る際、現地の空港の搭乗口で頭を五厘刈りにした若い男性の集団に出くわすことがある。彼らの服装は、ジャージだったり、スーツだったり民族衣装だったり、その時によって異なるが、何かしら揃いのものを身にまとっている。その表情は険しく、彼らの口元から白い歯が見えることは滅多にない。飛行機に乗り込む時も、一糸乱れぬ隊列を組んで、背筋をぴんと伸ばして歩いている。東南アジアの若者は日本の若者と同じようにというか、それ以上にヘラヘラしているのだが、この一団からは一切そういう感じは見られない。普段はヘラヘラしている若者しか見ないせいか、その反動で、彼らを見て感心する以上に、鳥肌が立つような不気味さを感じるのは僕だけではないと思う。

 初めて彼らのような団体を見た時は、何かのスポーツのナショナルチームが世界大会だかアジア大会のために日本に行くんだな、と思った。しかし、運動選手にしては身体も華奢で貧相な感じがするなあとも思ったが、東南アジアでは代表選手とはいえ、トレーニング法も栄養摂取も未発展なのだろうと一人合点し、あまり深くは考えなかった。

 日本に戻って、ある人に僕が空港で見たことを話してみると、「ああ、それは技能実習生だな」という答えが返ってきた。日本には技能実習という制度があり、途上国の若者が長時間、最低賃金も下回るような劣悪な環境で働かされるような場合もあり、国内外で度々問題視されているという話は聞いたことはあったが、生の技能実習生を見たのはあの時が初めてであった。その話を聞き、なぜ彼らがスポーツ選手のわりに身体つきが華奢だったのか、なぜスポーツ選手特有の自信や快活さが見られず、不安で怯えたような表情であったのか、などと言った疑問が全て解消したわけである。彼らはスポーツ選手ではなかったのだ。

 それから数年が経ち、僕はあるツテを辿って、ある国の技能実習生の訓練所を訪れる機会に恵まれた。聞いたところによると、技能実習制度では約80種類の業種の実習生が来日しているらしいのだが、この日、僕が見学させてもらった訓練所では、自動車整備を行う実習生の卵たちが訓練を受けていた。ここの実習生は、僕が空港で見たような坊主頭ではなかったが、どこぞの柔道部のようなスポーツ刈りで統一されてており、威圧感がある。

 彼らは現地において4,5ヶ月程度の訓練を受けてから日本に派遣されるらしいのだが、自動車整備の実技に加えて、日本語や日本式のマナーなどもみっちり教育されるらしい。訓練所の職員に一通り施設の案内をしてもらった。まずは自動車整備の実技を行うための施設ということで、大きなガレージのようなところに通されたが、ボロい自動車が3,4台あるのは良いのだが、あまり自動車整備の業界に詳しくない僕でも、設備が大分古いものだということが分かる。実習生に実技を教えているのも、日本人ではなく、おそらくかつて日本で技能実習生として働いていた人なのだろう。彼はおそらく自分が日本で身につけた技術をそのまま実習生に教えているようだが、その当時から日本の工場の事情もかなり変わってしまっているのだはないだろうかと懸念される。

 日本語などを勉強する教室も見せてもらったが、暑い国なのに冷房装置がまったくない。大きな扇風機がうなりを上げて回っているだけである。僕の中学校の教室でも冷房がなかったが、夏場は教科書やノートのページが汗をかいた腕にくっついてきて、大変不快だったことを思い出した。こんな環境でも、みんなで野太い声を揃えて教科書の例文を読み上げたりしながら真面目に勉強しているのだから頭の下がる思いである。

 彼らが暮らしている寮も見せてもらったが、狭い部屋に二段ベッドが4台という過密ぶりである。冷房がないのは当然のこと、教室にあった扇風機すらない。これでよく夜中に寝られるものだと思った。窓を開けて寝るにしても、でかい虫がわんさか入ってきそうである。それでも綺麗にベッドメイクされていて、散らかっている様子は一切ない。

 こんな感じで施設の中をあちこち案内してもらったのだが、実習生とすれ違う度に、彼らがわざわざ足を止めて、「こんにちは!」とか「お疲れさまです!」などと挨拶してくるのには参ってしまう。彼らが足を止めて挨拶をしてくるからには、こちらもそのように応対せざるを得ないわけだが、こちらは一人、向こうは何十人といるので、一度実習生の集団とすれ違ってしまうと、何十回も「こんにちは~」、「こんにちは~」と挨拶を繰り返さなくてはならなくなる。福澤諭吉が慶応大学を設立した当初、学生たちが彼を見かけるたびに、立ち止まってお辞儀をしていたのだが、福澤諭吉はこれは時間の無駄だと思い、学生たちが立ち止まってお辞儀をすることを禁止したそうである。福澤諭吉が150年以上前に廃止したことが、この訓練所では今も当たり前のように行われているのである。

 その他にも、前述のように髪型は全員スポーツ刈りに統一されていたり、朝は必ず全員揃ってラジオ体操をやるなど、かなり前時代的な儀式が行われているようである。訓練所の経営者は指導員たちは、「彼らは規律正しい日本で働くことになるのだから、このくらいは当然です」というような感じで、それらの規則について実に誇らしげに説明していた。彼らがイメージしている日本の若者像は、日本では絶滅危惧種となっていることを彼らは知らないと見える。

 彼らがなぜ、実習生をこんな風に訓練しているのかというと、実習生を受け入れる日本企業が軍隊式に訓練された若者が来ることを希望しているからなのだろう。訓練所の人々は、顧客の要望に忠実に応えているだけに過ぎないのである。技能実習生の訓練所を見学することで、日本の企業と若者の間にある深刻なミスマッチの一端を垣間見た気がした。

寝起きに水を一気飲みすることで僕の身体に訪れた唯一の変化

 先日、Twitterに次のような投稿をした。当たり前の話が、炎上することもバズることもなく、世間の耳目をひくようなことは一切なかったわけだが、個人的には思い入れのあるツイートなので紹介させて欲しい。


 何を隠そう、これは僕自身のことに他ならず、いまこの瞬間にもYoutubeのおすすめ動画における健康系動画の割合が増え続けている。確か数年前まではスポーツ系やゲーム系、旅行系など、若さ溢れる動画がもっと多かったように思うが、いつの間にか「溜まった疲れを取る方法」とか「深い眠りにつくための秘訣」などといった画面から加齢臭が漂ってくるような動画が段々と勢力を増してきている印象である。

 もちろん、これは勝手にこうなったということではなく、僕が健康系の動画をついつい見てしまうので、「あ、こいつは自分の健康に不安を感じているやつなんだな」と世界に冠たるYoutubeのAIが判断した結果のことである。いまやYoutubeのおすすめ動画を見るだけで、その人の関心事項や置かれている状況が手に取るように分かってしまう時代である。

 健康系の動画の落とし穴として、それを視聴しただけで健康になったという錯覚を起こしてしまい、動画中に説明されていたことが実践されないということが挙げられる。例えば「疲労回復ヨガ」とか「米海軍式快眠術」などという動画は、それなりに関心を持って見るものの、実際にやるのは骨が折れそうだということになると、「今度時間がある時にやってみよう」と先送りしてしまうことが多い。酷い時には、動画のタイトルに惹かれはするが、視聴することすら面倒になってしまい、「後で見る」リストに送られたまま二度と日の目を見ることすらない可哀想な動画も多数存在する。

 そんな中にあって「これなら俺にもできそうだ」と思った唯一の動画が「寝起きにコップ一杯の水を一気飲みする」というものである。これができなかった、一体他に何ができるかというくらい難易度激低の健康法である。簡単にできるわりに、思いのほか効果も絶大で、動画の言うことを鵜呑みにするのであれば、免疫力の向上や、腸内環境の改善、口臭予防や美肌効果まで、多種多様な効能が紹介されている。

 僕は普段からビール好きの知り合いから友情の証としてプレゼントされた1パイントのグラスを愛用しているのだが、早速翌朝から愛用の1パイントグラスに目一杯水を汲んでみた。1パイント=500mlということで、一見したところ結構な量で、「果たしてこれを一気飲みできるだろうか」、「そもそも一気飲みって身体に悪いんじゃないだろうか」と怯んでしまうほどである。

 それでも動画でやれと言われていたことなので、意を決して息もつかずに飲み干してみたところ、大量の水が意外にもすんなりと胃の中に収まっていく。動画の説明によると、寝起きの人間の身体はカラッカラに乾いているらしい。眠っている間に大量の汗をかくうえに、残った水分も寝起きの小便により体外に放出されるからなのだそうだ。500mlの水を案外すんなり飲めたのも、砂漠に水を撒いても水浸しにならないのと同じ要領なのだろう。

 さて、寝起きに水を一気飲みすることによって、実際に動画で言われているような効果があったのかと言われると正直なところよく分からない。おかげさまで風邪はひいていないが、それは水を飲んだからだと結論づけるのは早計であるような気がする。また、口臭の低下というのも、自分ではなかなか評価しづらく、「あなた今まで口臭かったけど最近マシになったわね」と毎朝電車で乗り合わせる人が言ってくれるわけでもないのでよく分からない。

 唯一実感できる効果としては、「ウンコが毎日出るようになった」ということである。それまでは2,3日に1度というのが僕の排便ペースであり、そのことについて特に問題意識も持っていなかった。むしろ「ウンコは溜めに溜めた方が出す時にデカいウンコが出て気持ちがいい」というポリシーのもと、便器を詰まらせたり、肛門から血を出したりしていたわけだが、毎朝水を飲むようになって以来、必ず1日につき1度はウンコが出るようになったのである。

 ウンコというのは言わば老廃物の塊なので、毎日出るのであればそれに越したことはないのだろう。自分のポリシーを貫徹できなくなってしまったのは残念なことだが、ポリシーを貫き通して体内に大量のウンコを溜め込んでいても人から尊敬されるわけでもなく、人に自慢できるわけでもない。自己満足の世界から脱却して、規則正しくウンコが排出できるようになったことを喜ぶべきなのだろう。

エナージェル インフリーを使ってせめて読める字を書こうと思う

 令和を生きる子供たちはどうか知らないが、昭和を生きる子供たちは、必要以上に字を綺麗に書くように躾けられていたように思う。僕自身も家にいる時は親から、学校にいる時は先生から、字は綺麗に書きましょうと毎日のように言われていた。先生の中には、あまりに「綺麗な字」を狂信的に信奉するがあまり「字が汚い奴は性格も汚い」などという、まるで理屈にならない理屈を真顔でこねる者まで現れる始末であった。

 さすがにここまで的はずれなことをしつこく言われると、僕も段々と綺麗な字を書くモチベーションが薄れてきてしまい、反抗期の到来とともに、「字なんて読めりゃいいんだよ」というスタンスが徐々に醸成されていき、さらにはパソコンの普及という追い打ちが重なり、とうとう一人の字の汚い大人が誕生してしまうという結末を迎えてしまった。

 一方で「字を綺麗に書かなければならない」という規範意識だけはしつこく僕の中に残り続けていて、自分の書いた汚い字を人に見せなければならない時には、なんとなく後ろめたい気持ちを覚えるのもまた事実である。「字が汚い奴は性格も汚い」というのは行き過ぎだが、字に人の性格や気質が現れるというのは本当のような気がする。僕の場合、はじめの数文字は綺麗とまではいかなくても、辛うじて整っているというレベルの字を書いているのだが、これが2行、3行と続くうちに、自分でも段々と字が雑になっていくのが分かる。書き上げたものを見ると、これほど僕の根気のなさ、飽きっぽさが的確に表現されているものはないと感じる。

 反抗期に確立したはずの「字なんて読めりゃいいんだよ」というスタンスさえも怪しいもので、なぐり書きで書いたメモを後になって読み返しても、自分で自分の字が判読できないなんていうこともザラにある。そういうメモに限って重要な事項だったりして、後になって困ることも多いので、「せめて自分くらいは読める字を書こう」と思い立った次第である。

 「良い仕事をするためには良い道具が必要である」というのが僕の持論である。この持論のために、随分無駄な買い物をしている気もするが持論として定着してしまったものはなかなか修正するのも難しい。「弘法筆を選ばず」ということわざもあるが、それは弘法大師空海という書の名人だからそういうことが言えるのであって、空海でも何でもない我々は良い道具に頼らざるを得ない。

 かと言って、僕は物を失くしやすいので、何千円、何万円とする万年筆を買い求めるのもリスクが大きい。そんなわけで色々なペンを買っては書き心地を試していた僕が行き着いたのが、ぺんてるのエナージェルというボールペンである。

 
 多分に相性の問題もあるのだろうが、僕にとってはこれを使うとペン運びがスムーズになって字が書きやすいし、心なしか10%増しくらいで綺麗な字が書けるような気がする。ペンの太さも0.3mmから1.0mmまで選ぶことができるようになっているが、僕にとってはやや太めの0,7mmで字を大きめに書くようにすると、幾分読みやすい字が書けるようだ。

 これは最近知ったことだが、エナージェルもいくつかシリーズ展開がされているようで、最近購入したエナージェル インフリーというシリーズは、エナージェルの書きやすさはそのままに、見た目もスタリッシュなうえに、ターコイズブルーやオレンジという他ではあまり見ない色が採用されていて面白い。

 
 それまでは資料を訂正したり、書き込みをする時は赤色を使っていたが、インフリーを使うようになってからは、赤の代わりにオレンジを使うようになり、ささやかな個性を演出できる。まあ僕の場合は字が十分個性的なので、色までも個性を出してしまうと、個性が溢れてしまうという弊害もあるかもしれない。

 さて、製造会社のぺんてるは、このインフリーに対して「アイデアが加速する」というキャッチコピーを与えている。確かにブルーブラックの落ち着いた色合いは、書いているうちにアイデアが泉のように湧きそうなイメージではあるが、今のところインフリーによって僕のアイデアが加速したという事例は報告されていない。まあ、これはインフリーというよりも僕の頭の欠陥のせいであろう。

悪書追放ポストってまだ必要なの?

 先日、山梨県を訪ねた時に、駅の構内に「悪書追放にご協力ください」と書かれた白いポストが目に留まった。「悪書」という文字を見て、まず思い浮かんだのは、個人を中傷するデマが書かれた怪文書のようなものか、白髪でしわがれ声の魔女が使う呪術書のようなものだった。

 「山梨ってすげえとこだな・・・」と思いながら、恐る恐る白ポストの記載事項を読んでみると、このポストは「青少年に有害な本やビデオ」を投函するためのものであるとのことだった。これを見て、ようやく「なるほど、エロ本をここに入れるのか」と本来の趣旨が理解でき、山梨県は健全な青少年の育成に熱心な素晴らしい県だなと思った次第である。

 山梨での目的を終えて、帰りの電車に揺られていると、暇にまかせて頭に浮かんでくるのは、先程見た白いポストのことだった。おそらく、お母さんが息子の部屋を掃除している時なんかに、ベッドの下や引き出しの奥で発見したエロ本を放り込みにくるというのが、このポストが本来意図するところの正しい使われた方なのだろうなとか(エロ本でパンパンに膨らんだ風呂敷を背負って駅に向かうおっかさんの姿と、学校から帰宅して整理整頓された部屋で頭を抱えている息子のコントラストはグッとくるものがある)、自分の家の前にも白ポストを設置し、その管理人になればタダでエロ本がゲットできてお得だな、など、実に知的好奇心をくすぐるというか、思索を巡らすのに持ってこいの題材である。

 しかし、果たして、あの白ポストがどれだけ上に挙げたような正しい使われ方をしているのかは甚だ疑問である。自らの青少年時代を振り返ってみると、エロ本の捨て場所ほど気を使うものはなかった。不思議なもので、エロ本というのは、放っておくとどんどん増えているもので、そのうち自室の隠し場所だけでは収まりきらなくなってしまう。どうにかしてこれを処分しなければならないのだが、近所のゴミ捨て場に捨てているところを向かいの家のおばさんに見られでもしたら、その話は一両日中におばさん連中の井戸端会議の格好のネタとされてしまう。多摩川の土手に投げ捨てるという案もあるが、お巡りさんにでも見つかったりしたら、説教を食らう上に捨てたいエロ本を担いで持って帰るように指導されたりして面倒くさい。同じ部活の友人に友情の証として贈呈するという案もあるが、自分の性癖がバレるのも嫌だ。そんな時に、自分の家から少し離れた駅にある白ポストは実に頼りになる存在である。途方に暮れた僕に救いの手を差し伸べてくれるのは、親でもなく、学校の先生でもなく、悪書追放の白ポストだった、ということになる。

 おそらくこのようなことを考えるのは僕一人でもないと思うので、白ポストには摘発されたエロ本よりも、むしろ使い古されたエロ本の方が多く入っているのではないかと推察される。色々考えてはみたものの、そもそもスマホひとつで何だって見られてしまう時代に、エロ本に依存している青少年なんてどれだけいるものなのだろうか。もしかするとあの白ポストにはエロサイトにアクセス履歴のあるスマホが今日もガッチャンガッチャン放り込まれているのかもしれない。あるいは山梨県にはまだインターネットが普及していないという可能性もある。

アメックスのプラチナカードの年会費の元を取る方法が分からない

 長年アメリカン・エキスプレスのグリーンをメインのクレジットカードとして使っている。アメックスを選んだのは、なんとなくカードのデザインがカッコいいからという理由である。緑色のクレジットカードなんて他ではあまり見ないし、その緑もエメラルドがかっていてオシャレである。また、ローマ兵のようなマスコットキャラも精悍で、この僕が持つに相応しいものである。その見栄えのために年会費12,000円を支払っていると言っても過言ではない。

 もちろん、アメックスの利点はそれだけではなく、例えば海外に出張や旅行で出かけたりする時などは、スーツケースを家から空港まで無料で送ってくれるサービスがあったり、カードラウンジが使えたりするので、それなりの恩恵は得ているつもりである。それくらいのことならば他のクレジットカードでもできるだろという意見もあるだろうが、同じサービスを受けるのであれば、少しでも見た目が良いカードを持ちたいというのが繊細な男心である。まあ、どんなにカッコよかろうが、所詮はアメックスのグリーンなので、他人にホレホレと見せびらかすこともなく、普段は日の目を見ることなく財布のなかでくすぶっているのだけれども。

 一方で、アメックスにも不便なところがあって、案外使える店が少なかったりする。10年ほど前に、シンガポールチャンギ国際空港で、乗り継ぎのために空港内に3、4時間ほど滞在することがあった。腹が減っていたこともあり、せっかくだから空港でなにか美味いものでも食べようと、色々な店を覗いてみたのだが、どこへ行っても「うちはアメックス使えまへん」とか「VISAカード持ってないのかよ」という対応をされてしまう。結局大変ひもじい思いをしながら、あの巨大なチャンギ空港で膝を抱えていたという思い出がある。

 今考えてみれば、横着せずに1,000円や2,000円くらいの現金をシンガポール・ドルに両替すれば良かったのにと思うが、おそらく当時の僕は、国際空港という晴れ舞台で、懐からアメックスを取り出して、颯爽と決済をするという夢に描いていた自分の姿をぜひとも現実のものにしたかったのだろう。それ故に両替した現金でチマチマ支払いをするなどということは思いもつかなかったのだ。まあ、こんな応用のきかない奴は、腹を空かせたままそこらで体育座りをしているのがお似合いである。


 さて、先日そんな僕の自宅にアメックスから大層な郵便物が送られてきた。銀色の封筒には「あなたが輝く瞬間に。メタル製プラチナ・カード」というキャッチコピーとともに「An Invitation to the Platinum Card」とある。

 アメックスのプラチナカード…。そういえば幼い頃、村の長老から、選ばれし者のみが持つ資格を与えられる伝説のカードがあるという話を聞かされたことがある。苦節20年、ようやく俺も選ばれし勇者に認定される時がきたかと喜び勇んで銀色の封筒をばりばりと開けると、中からこれまた銀色の冊子が出てきて、プラチナカードを持つ者だけに与えられる様々な特典が紹介されていた。主なものを挙げると、このようなものである。

 ・シャングリ・ラやマリオットホテル等の上級会員と同等の待遇(部屋のアップグレードやレイトチェックアウト等)を受けることができる。
 ・年に一度、日本国内の高級ホテルの無料宿泊券がプレゼントされる。
 ・世界1,200ヶ所以上の空港の高級ラウンジを使うことができる。
 ・日本国内の200のレストランで、2名以上の予約を入れると1名分のコース料金が無料になる。
 ・会員制スポーツクラブやスパの特典。
 ・非公開の文化財の拝観ができる。

 などなど、ここには挙げきれないほどの絢爛豪華たる特典が続々と列挙されている。

 自分にインビテーションが来たということは、天下のアメックス様が、僕がこれらの特典の恩恵を受けるに相応しい人間であると認めたということだろう。僕は冊子に目を通しながら、高級ホテルにステイする自分、会員制スポーツクラブで汗を流す自分、非公開の仏像の隣で座禅を組む自分の姿を思い描き、輝かしいプラチナライフに胸を踊らせていた。

 封筒の中にはご丁寧にプラチナカードの申込書が同封されていて、あとはこれに記入しさえすれば夢のプラチナライフが僕の手に入ることになる。はやる気持ちを抑えつつ、冊子の最後のページに目をやると、そこには妄想中の僕に冷水を浴びせかけ、襟首を掴んで現実の世界に引き戻す魔法の文言が書かれていた。

「年会費…13万円だと…?」

 年会費13万円。冒頭に書いたとおり、グリーンの年間費は12,000円。実に10倍以上の金額である。

 冷静になって考えてみると、僕はシャングリ・ラホテルなんぞ、40年弱の人生で一度も泊まったことがない。泊まることがないのだから、アップグレードもへったくれもないではないか。

 また、かしこまったレストランで外食をすることも年一度、あるかないかである。不倫相手でも見つけて、月に一度くらいのペースで高級レストランでの逢瀬を楽しむようなことでもしない限り、この特典の恩恵を十分に受けることはできないのではないか。そもそも、2名のうち1名分は無料になると言っても、もう1名分はお支払いしなければならないわけだ。不倫相手に「俺はタダなんだけど、君は自分の分は自分で支払ってくれ。最悪1人分を折半でもいい。」などと言おうものならば、一瞬で愛想をつかされるうえ、悪くすると、「あの人みみっちいのよね。プラチナカード持ってるのに。」などというウワサが立ちかねない。そういうことならば、日高屋のカレーが毎週一杯タダになるとか、立ち食い蕎麦屋で天ぷら一品付けられるなどの特典の方が遥かにありがたい。しかし、それでも年会費の額に達するまでカレーや天ぷらを食い続けるのは大変なことだろう。

 思うに、プラチナカードというものは、既にプラチナ的な人生を送っている人が、その人生をより充実させるためのカードなのではなかろうか。普段は庶民的で慎ましやかな生活を送っている人間が身の丈に合わないプラチナカードなんぞを持ったところで、それは宝の持ち腐れというやつに他ならないということである。

 なお、プラチナカードはアメックスから選ばれし人間のみに持つ資格が与えられると村の長老が言っていたが、それはどうやら長老のガセネタで、審査に通りさえすれば、誰でも持つことができるものらしい。それを見てなおさらプラチナカードを持つ決意が薄くなってしまったわけだが。

睡眠不足は八村塁をも悩ませる

 NBAの2019-2020シーズンが開幕した。ファンやメディアの間では、「今シーズンは5年ぶりに始まるのが楽しみなシーズンだ」とボジョレーヌーボーみたいなことが言われている。その理由は極めて単純明快なもので、優勝するチームの予想がつきにくくなったということだろう。

 過去5年連続でファイナルに進出し、3度の優勝を果たしたGolden State Warriorsは、エース格のKevin Durantが抜けてしまい、もはや優勝候補とは呼べなくなってしまった。また、昨シーズン優勝のToronto Raptorsからは、ファイナルMVPのKawhi Leonardがこれまた移籍してしまい、今度は移籍先のLos Angeles Clippersが優勝候補の一角として注目されている。また、同じLosAngelsに本拠を置くLakersも、昨年は史上最強の選手とも言われるLebron Jamesの孤軍奮闘という感もあったが、3度のブロック王に輝いたAnthony Davisが移籍してきたことにより、これもまた優勝候補のひとつに挙げられるまでになった。また、NBA公式サイトでは、開幕前のランキング第一位に、昨年のシーズンMVPのGiannis Antetokounmpoを擁するMilwaukee Bucksを挙げている。

 昨年までは「どうせGolden State Warriorsが勝つだろうから、シーズンは飛ばしてプレーオフから見ればいいや」という雰囲気が漂っていたことを思うと、今年は優勝候補のチームがいくつもあって、ファンやメディアの間でも喧々囂々の議論がなされている。やはり何事も先が見えすぎてしまっても面白くないのだ。

 また、日本のファンにとっては、八村塁と渡辺雄太の2人の日本人選手の動向からも目が離せない。特に、今年日本人選手として初めてドラフト1巡目で指名を受けた八村塁は、大学時代の実績からしても、Rookie of the Yearは難しいかもしれないがAll Rookie 1st Teamに選ばれるような活躍をすることも不可能ではないと思う。残念ながら、彼が入団したWashington Wizardsは今シーズンは下から数えた方が早いくらいの弱いチームになりそうだが、逆を言えば彼のようなルーキーにも十分な機会が与えられるような環境にあるということだ。

 これはNBAに限らず、全てのアメリカのプロスポーツに言えることだが、アメリカでプロスポーツ選手として成功するためには、当然卓越した身体能力や技術を持っていることが必要となるが、それ以上に過酷な遠征に耐えられる精神的・肉体的なタフさが求められるようである。例えば、今シーズンのNBAでは、2019年10月22日から2020年4月15日の176日間がレギュラーシーズンとされており、選手たちはこの期間に82試合をこなす必要がある。ざっと計算して2日に1日は試合をしなければならないことになる。これだけでも相当大変なはずだが、そのうえに長距離の移動も強いられることになる。

 先日、ESPNPodcastを聞いていたら、強豪チームのPhiladelphia 76ersのTobias Harrisという選手が、インタビューのなかで、「数年後、NBA選手の睡眠不足問題はNFLの脳震盪問題と同じレベルで取り上げられることになるだろう」という発言をしていた。これについて、長年NBA選手として活躍していたMatt Barnes氏がこれに同調して「例えば、延長戦を終えて、記者会見でインタビューに答えていると夜の12時近くになっている。翌日に試合がある場合には、その夜のうちに時差のある次の遠征先に移動して、朝3時にホテルにチェックイン、ようやく眠れるのは朝5時などということもある。」と話していた。どうやら、スタジアムの華美な照明や大歓声のなかで試合をしていると、時として昂揚した気分を鎮めて眠りにつくのも困難なものであるらしい。

 八村選手も大学時代はゴンザガ大学という強豪校に在籍し、短期の遠征ならば経験はあるはずだが、これほど長期に渡る遠征は経験がないはずである。学生時代にはなかった誘惑も多いことだろう。八村選手がNBA選手として結果を残すためには、コート上の戦いのほかにも、遠征時の睡眠不足という難敵にも対処する必要があるのだ。

いじめをなくすのは無理なので上手に共存する方法を考えよう

 どういう経緯で公になったのかは知らないが、小学校の先生が寄ってたかって若い先生を羽交い締めにし、無理矢理激辛カレーを食べさせるという動画がインターネット上に公開されて話題になっている。どうやら先生たちの間でいじめがあったとのことだが、最初にこの動画を見た時は、いじめ方がやけに子供じみていやしまいかと思った。どうせ大学を出たばかりで、小僧だか先生だか見分けがつかないような輩が、学生のノリでやってしまった動画なのだろうと思ったら、加害者側の先生たちは30代から40代だと言うので驚いた。40歳にもなってあんないじめ方しかできないというのは情けない話である。普段子供たちに混じって生活しているので、いじめ方まで子供っぽくなってしまうのだろうか。そもそも学校の先生というのは、子供たちに良い影響を与えることが期待されているはずなのに、逆に先生が子供達から悪い影響を与えられてどうすんだという気がする。
 
 それにしても、本来いじめとは最も縁遠い場所にいるべきとされる学校の先生たちの間にすら、いじめは存在するのである。これを見てしまうと、やはりいじめを世の中から根絶することは不可能なのだなと思わざるを得ない。残酷な話だが、いじめる側からすれば、いじめは最高に楽しくて、やりがいのあるものである。集団の中で異質なものを攻撃し、排除することは、組織に連帯感をもたらし、集団の結束を強くする。集団の構成員にとって、周囲の人々との連帯感が強まる以上の快感はない。それは卓越した倫理観を持っているはずの学校の先生をもってしても抗うことができないほどのものであるようだ。
 
 いじめられる側の人間にとってみればたまったものではないが、集団全体からすれば、1人や2人の犠牲者が出たところで、集団の結束という大正義の前には瑣末な問題である。集団の外側から「それはいじめだぞ」と指摘されるまでは、それがいじめであることにすら気付かないだろう。むしろ、集団の秩序の維持のための正義の行いとさえ考えているかもしれない。現に今回の件でも、いじめが発覚後に主犯格とされる先生が書いたとされる謝罪文のなかに「自分の行動が間違っていることに気付かなかった」という表現があるが、これは本当に正直なところであろう。いじめている側の人間は、自分が他人をいじめているという自覚がないのだ。有名人のなかにも「昔はいじめられっ子でした」と当時の体験を語る人が多くいるが、「昔、いじめっ子でした」という人が出てこないのはなぜだろうと不思議に思っていたが、いじめっ子にはその自覚がなく、成長した後も「自分はいじめとは無縁のところにいた」と思っているからなのだろう。
 
 いじめは犯罪なのだから、加害者は逮捕のうえ刑法により処罰を加えろとの意見があるが、これには全面的に賛成である。加害側に刑事罰が下る程度のダメージを与えるようないじめに対しては、学校の先生だろうが会社の経営者だろうが聖域を設けずどんどん処罰すべきである。しかし、世の中には、法律的にはクロと言えないような程度のいじめも無数にはびこっているのではないだろうか。
 
 どんなにいじめはダメだと言ったところで、世の中からこれを根絶することは不可能である。そろそろ人類はこの事実を認めて、根絶よりも共存に向けてシフトすべきである。学校や会社においても、「いじめはいけません、いじめをなくしましょう」などとお題目のように唱えるのではなく、「友達や同僚を自殺に追い込まない程度に上手にいじめる方法」とか「おいしくいじめられて逆に人気者になろう」などということを教えるべきなのではないかと考えている。また、不幸にもいじめられてしまった場合には、無理にその集団にしがみつくことはせず、即座に他の集団に移るべきである。運が良ければ、今度は新しい集団において、いじめる側に回ることができるかもしれない。

Twitterのおかげで記事数>アクセス数の糞ブログが救われました

 ハッキリ言ってしまうと、このブログは糞ブログである。
 
 何をもってこれを糞ブログと断ずるのかというと、「毎日更新しない」、「テーマが一貫しない」、「読んでも役に立たない(読者の疑問が解決しない)」というブログでやってはいけないとされていることを全てやらかしてしまっているからである。

 こんなことを書いて免罪符になるか分からないが、自分としてもハナっから、「糞ブログですけどなにか?」というスタンスで書いているようなところもある。もともと思いついたことを適当に書き散らかすという徒然草スタイルでやっているものだし、多くの読者を得ることを目的としているものでもない。

 筆者がそういうスタンスなので、その姿勢は自然とアクセス数に跳ね返ってきてしまう。昨日までに18本の記事を書いているのだが、総アクセス数は17と、記事数の方がアクセス数を上回るという現象が起きてしまっていたのである。

 このような惨憺たる状況を目にしてしまうと、さすがに僕も人の子とみえて、「せっかく書いているのだから、多くの人とは言わないまでも、少しくらいは読んでほしい」という気持ちが芽生えてくる。

 今の世の中、どんなに美味いラーメン屋でも宣伝がまずかったら客は入らないと聞く。逆に言えば、多少まずいラーメン屋でも、頑張って宣伝をすれば多少は客がやってくるということである。

 まずはブログの宣伝をしてみようと思い、先日Twitterのアカウントを取得したところである。当初は自ら時事問題などをツイートをしたり、他人のツイートを見るのが面白くて、ブログの執筆がそっちのけになってしまうという本末転倒の危機もあったが、このままではいけないと一念発起して、ブログを更新するたびにツイートを流すことにしてみた。

 すると、昨日書いた記事に対して、26ものアクセスがあったものだから、思わず我が目を疑ってしまった。7月にブログを始めてから昨日までの約3ヶ月あまりで得た以上のアクセス数を、今日1日で突破してしまったのである。

 つまり、あと25本記事を書いたとしても、記事数がアクセス数を上回らないことが保証されたということである。

 宣伝もやってみるものだなあと思ったが、こんな何の役にも立たない糞ブログをクリックしてしまった人に対して申し訳ないなあという気がしないでもない。宣伝なしにこのブログを覗きにきているのであれば、自己責任だろと開き直ることもできようが、こちらから「こんなの書いてます」などと押し売りをしてしまったからには、「糞ブログ読まされてやんのざまあ」などといったように冷や水をぶっ掛けるのも可哀想な気がする。

 これからもしばらくTwitterを使った宣伝は続けていこうと思うが、せめて人さまの時間を奪うに足る文章を書かなければならんなあと思っている次第である。

IIJ会長の鈴木幸一さんの「私の履歴書」が謎だらけだけど面白い!

 日本経済新聞には、各界の著名人が、自分の生い立ちから半生を振り返る「私の履歴書」というコーナーがある。執筆者はひと月ごとに交替していくのだが、会社の社長や政府関係者等のお堅い職業から、漫画家や俳優などといった芸術関係の人まで幅広である。おそらく記者がゴーストライターをつとめていたりはせずに、ご本人が自ら筆を執っているのだと思うが、当然ながら、読んでいて面白い人もいれば、そうでもない人もいる。概して、人生寄り道も挫折もせずに、ストレートに今の地位に上り詰めた人の半生は読んでいても面白くもなんともない。役人とか学者なんかがその部類に属する。また、科学者なんかも時として話が専門的になりすぎてしまって、ド文系頭の僕には難解なことがある。面白いのは、若い頃に大きな病気をしたり、一文無しになったりした人の話である。まあ、あまり他人の人生を面白がるものでもないが、それでも「私の履歴書」に執筆をするくらいの著名人である。どんなに苦労しても失敗しても、いずれは成功することが目に見えているのだから、読む方も安心して面白がれるというものである。

 今月の「私の履歴書」は鈴木幸一さんというIIJの会長が書いているのだが、これは久々に面白く読めるものである。鈴木さんは、初回から自分を「変わり者」、「落ちこぼれ」と呼び、いかに自分の人生が上手くいかなかったかということを強調している。自称「変わり者」というのは、蓋を開けてみたら普通の人だった、ということが往々にしてあるが、鈴木さんの場合は本当に変わり者のようで、語られるエピソードも謎に満ちている。学校に行ってもろくすっぽ授業に出ずに、気の赴くままに演芸場や映画館、図書館や美術館で時を過ごしているわりに、どういうわけか学校の単位もしっかり取得し、早稲田大学まで出ているのである。英語の勉強も兄からもらったプレイボーイでしたというのだから面白い。

 「残業もなく早く帰れそうだから」という理由で入社した日本能率協会でも、トヨタの幹部に生意気な提案をして、資料を投げ捨てられたとあるのに、いつの間にか30歳そこそこで同社が刊行している経済誌の編集長まで任されている。その編集長の仕事でも採算度外視で、奇抜なデザインの表紙や攻めた内容の記事を載せていたら、派手に赤字を出してしまい、編集長の座を追われたりしている。そのくせ次のポストでは、閑職とはいえ部長に昇進しているというのだからちょっと理解に苦しむところがある。

 鈴木さんの私の履歴書を読んでいると薄々分かってくるのだが、鈴木さんの一風変わった人生を支えているのは、天才的な人間関係構築の上手さであろう。若い時から、相手が大学教授であろうと企業の重役であろうと外国人であろうと、いとも容易く打ち解けた関係になっている。その交友関係の中には、本田宗一郎岸信介といった歴史上の人物まで出てくるのだから驚く。僕なんかに言わせると、そんな人達とどうやって仲良くなったのかを是非書いてもらいたいところであるが、そのあたりのことは一切明かされない。唯一ヒントめいたこととして、「非常識ではあるが、礼儀正しい若者として、珍重されたのだろうか。」などと綴っている。おそらくこれは鈴木さんの天性の魅力というもので、余人が真似をしようと思っても決して真似ができないものなのだろう。

 10月も中盤に差し掛かり、鈴木さんの私の履歴書では、いよいよ鈴木さんが仲間とともに、資金繰りや制度の壁を乗り越えながらインターネット事業に乗り出す展開へと進んでいく。いまや僕たちの生活に不可欠となったインターネットがどのように商業化されていったのかを読みすすめることができるということならば、嵐の三連休の終わりも少しは楽しみになりそうである。