まぬけじる日記

もうすぐ不惑を迎える男のまぬけな日常を描いた雑記です。Twitter:@manukejiru

弱さをさらけ出せるようになった清原を応援したい

 かれこれ20年くらい昔の日本には、「清原和博こそ男の中の男」という空気が確かに存在していた。

 当時の清原といったら、金のネックレスに頭は五厘刈り、どこの日サロか知らないが、黒光りするほど焼けた身体はレスラー並にビルドアップされていた。正直ヤクザでもそんなヤクザっぽい風貌の奴はいねえよと思うほどである。

 マスコミもそんな清原を称して「番長」だの「男・清原」だの持ち上げるし、当の清原も満更でもなさそうに、長渕剛をBGMにして、元木なんかの腰巾着を引き連れて幅を利かせていた。

 当時学生であった僕は、こうした風潮を実に苦々しく思っていて、軽薄そうな輩が「男なら清原みたいになりたいよな」などと盛り上がっているのを聞く度に、「一体清原のどこが男らしいんだ。どいつもこいつも全く本質を見損なってるな」と憤懣を抱いたものだった。

 別に清原に対してなんの恨みも持っていない僕がこのような怒りを感じていたかを解説すると、僕の目には清原が男らしいようには1ミリも見えなかったからである。

 一例を挙げると、デッドボールを当てられた際、ワザと当てられたのでもない限りは黙って一塁まで歩くのが男らしいとされる行為ではないかと思う。それに対し、清原はデッドボールを当てられるや、物凄い形相でつかつかとマウンドに歩み寄り、ピッチャーを威嚇するのである。それも誰に対してもそうするのではなく、若手投手など自分の番長キャラが通用しそうな相手にのみそうするのである。例えば彼の社会的なキャラなど解しない体格の良い外国人ピッチャーにぶつけられた際などは、やや不満げな表情はするものの、マウンドに向かっていくことせずに、憮然とした感じで一塁まで歩いていくのみである。

 まあ身体が資本である野球選手がデッドボールを警戒する気持ちも分からなくもない。しかし、ストレートで勝負してこない投手に対して恫喝をもって接するというのは弁護の余地がないと思う。阪神の藤川のように、ストレートを武器とする投手に対してストレート勝負を要求するのは分からないでもないが、そういうわけでもない投手にまでストレート勝負を強制するのはいかがなものだろうか。
 
 そういった経緯もあり、僕個人は清原を男らしいとは感じておらず、むしろ精神的な脆さを抱えた、弱い人なのではないかと感じていた。彼が好んでコワモテ系の風貌をしているのも、取り巻きを引き連れているのも、相手も恫喝するのも、彼自身の弱さの現れではないかと。今思うと、僕の苛立ちは清原本人というよりも、彼の弱さに気付かず、それどころか「男の中の男」みたいな扱いをする鈍感な世の中に対して向けられていたのかもしれない。
 
 世の中なにが気の毒だと言って、実像とは正反対のパブリックイメージをつけられるほど気の毒なことはない。清原本人も、ある時点で「俺はこんな男じゃない」と言うことができればまだ救われたのかもしれないが、引退するまで自身の虚像から逃れることができなかったようである。
 
 結局、清原は違法薬物に手を染めて逮捕されてしまうわけだが、彼が薬に手を出したのは、「男の中の男」という実像とはかけ離れたキャラを演じることに疲れてしまったというのが一因なのではないだろうか。そうなると、清原を犯罪者に追い込んでしまったのは、無責任にも彼に変なキャラをつけて囃し立てていた奴らひとりひとりに責任であると言ってよい。

 逮捕されてからの清原は、取材に対して「人前が怖い」と告白するなど、自分の弱さを表現するようになっている。従来のファンの目には頼りなさげに映るかもしれないが、これは清原本人にとっては進歩なのではないか。少なくとも自らの弱さを認め、それをさらけ出すことができる強さを手に入れたわけだから。