まぬけじる日記

もうすぐ不惑を迎える男のまぬけな日常を描いた雑記です。Twitter:@manukejiru

桃太郎は別に多様性を求めてはいなかったと思う

 10月17日(土)の日本経済新聞朝刊に掲載されていたJTの広告が目に留まった。曰く、「桃太郎はなぜこの三匹を仲間にしたのか」とのことである。


 それに続く20行ほどのコピーを読むと、桃太郎はチームに多様性を取り入れ、ある種のケミストリーを起こそうという戦略のもと、犬、猿、キジの三匹を仲間にしたのだろう、という内容である。


 企業の広告の内容についてくそまじめに論評するのは無粋の極みであるが、どうにも気になってしまったので、個人的に思うところを書き連ねることにしたい。


 そもそも桃太郎は本当に自ら望んでこれらの三匹を仲間に引き入れたのだろうか。


 少なくとも僕が知っている桃太郎では、彼自身、別に鬼退治の仲間を欲していたような記述もなかったように記憶している。なんなら単身鬼ヶ島に乗り込んで暴れるつもりだったのかもしれない。桃太郎も結構無謀なやつである。


 むしろ鬼退治のような偉業を成し遂げるためには、他人の力を頼まず、己一人でやり遂げるくらいの向こうみずさが必要なのだという示唆なのかもしれない。


 まあ、結果的には運良く犬、猿、キジといった仲間とともに鬼ヶ島に乗り込むことになったわけだが、それも数多の応募の中から厳正な選考の末にこの三匹を選んだということではなく、猿も犬もキジも、桃太郎が所持しているきびだんごに目が眩んで鬼退治に加わっただけのことである。そこには、JTの広告が言っているような、「多様性を取り込もう」などという戦略が介入する余地もない。


 「なんだか知らんが、気付いたら多様性溢れるメンバーになっていた」というのが正直なところなのではないだろうか。


 桃太郎も、せっかく仲間にするんだったら、カレリンとグレーシーとヒョードルを引き連れて行きたかったと思っていたかもしれない(格闘技には疎いので、「世界最強の格闘家」のキーワードでググってみたら出てきた3人である)。


 ただ、「鬼退治」などという馬鹿げた理念に共鳴してくれる人もおらず、共鳴できない馬鹿な理念を補えるほどの報酬も用意できなかったため、仕方なくきびだんごに釣られて付いてきた動物を連れていかざるを得なかったのだろう。


 思うに、多様性を取り入れて成功している組織というのも、初めのうちはこのような感じだったのかもしれない。「うちには猿と犬とキジしかいないけど、猿はツメ、犬はキバ、キジはクチバシという、頼りないけど唯一の武器を最大限活かしていこうね」くらいのノリがたまたま思いもよらない成果を上げてしまった、というくらいのことに思っておいた方が良いだろう。


 所詮神でもなんでもない人間が、戦略的(笑)に多様性を取り入れたとしても、必ずしも良いケミストリーが生まれることはなく、むしろその逆に作用してしまうことも少なくないのではないだろうか。

2歳の娘を持つアラフォーのおっさんが髭を剃るとこうなる

 朝、洗面所でジージー髭を剃っていると、背後から「お父さん、野菜持ってきたよー」と先日2歳になったばかりの娘の声がする。

「あ?野菜???」なぜ髭剃りに野菜が必要なのか。

 寝起きということもあり、自分の頭の中で禅の公案のような問題を上手く整理することができず、父親の威厳も失われるほどえらく混乱してしまった。

 もしかすると、電気カミソリの発するジージーウィンウィンいう音のせいで、なにか別の物と「野菜」を聞き違えたのかもしれない。

 そう思って、洗面台の鏡越しに娘が持ってきた物体に目をやると、彼女の小さな手の中にあるのは、間違いなく、娘が普段おままごとで使っているプラスチック製のトマトやきゅうりである。

 「はい、どうぞ」やや誇らしげにそう言って、娘は僕の手にトマトやきゅうりなどを握らせようとする。「髭剃りをしているところに野菜を持ってきてあげるなんて、私、最高に気の利く娘でしょ!」と言わんばかりの顔である。

 彼女には悪いが、これらの野菜は髭剃りには何の役にも立たないので(まあおもちゃの野菜は髭剃りに限らずいかなる場面でも役に立たないのだが)、「はいはい、どうもありがとう」と適当にあしらいつつ、これらの野菜を洗面台の上に適当にうっちゃっておいた。

 ところがどうもこれが娘の気に食わなかったらしく、彼女は顔を真っ赤にして泣きながら抗議してくる。平常時でさえ会話の覚束ない二歳児の言うことではあるが、これでも一応親なので、彼女の言葉にならない訴えを理解することはできる。「せっかく私が髭剃りを頑張っているお父さんのために野菜を取ってきたのに、どうしてしっかり手に持っておかないのか」という趣旨の発言をしたいのであろうことは想像に難くない(このくらいは親でなくても察せそうなものではある)。

 これが2歳児ではなく、12歳や22歳であったならば、「髭剃りに野菜はいらないでしょ」という面白くもなんともないツッコミをしたり、「なぜ髭剃りに野菜が必要なのか説明しろ」と理性的な対応を促すこともできるだろう。しかし、目の前で泣き喚いている2歳児を前にしては、一度髭剃りを中断し、出社時間に遅れることを覚悟で、おもちゃの野菜を持って洗面所に突っ立っているくらいしかできないのが微妙なお年頃の娘を持つ父親の辛いところである。

新入社員にストレス耐性を求め出す会社に気をつけよう

 僕が勤めている会社のようなブラック企業スレスレの会社になると、新入社員に求めるものは「コミュニケーション能力」でも「国際感覚」でもなく、「ストレス耐性」ということになってしまう。

 採用の責任者あたりが「結局ストレス耐性なんだよなあ」とか小声で呟き始めるようになったら、その企業はブラック企業に片足突っ込んでいると言ってよい。
 
 21世紀になっても令和の御世になっても、理不尽が世の中から消え去ることはなかった。おそらくこの先もずっとそうであろう。新型コロナウイルスと同じように、理不尽とも上手く付き合っていくしかないのではないか。

 「with理不尽」の世界において、多少の「ストレス耐性」は不可欠である。不可欠ではあるのだが、「そもそもストレス耐性ってなんなのよ?」とか「人間のストレス耐性ってどうやって測るのよ」とかいう問題について世の中全体のコンセンサスが得られていない中で、これを単なる一ブラック企業がどのように採用基準に取り入れようとしているのか疑問である。

 ストレス耐性というものを少し噛み砕くと「常人が100と感じるストレスを30くらいにしか感じない」というものと、「常人と同程度にストレスを感じるが、上手にストレスを発散させられる」というものの2パターン存在するのではないかと思う。しかし、社員の採用という限られた時間と判断材料において、いずれかの特質を持つ人間をどうやって見出すのだろうか。

 いくらなんでも「あなたはストレス耐性のある方ですか?」などとストレートに聞くわけにもいくまい。仮にストレス耐性皆無の人でも、「いや、全くないです。ガラスのハートです」とか「例えて言うならCDケースの連結部分くらいでしょうか」とか「少し前に飛行機で自分のメンタルを預けるのを拒否されました」みたいなふうに答えてくれる人は稀であろう。

 「ストレスが溜まった時はどのように解消しますか」などということを聞いたって、当たり障りのない回答しか返ってこないだろう。世の中には嫁さんを殴ってストレス発散している男が相当な数いるようだが、まさか採用面接でそんな答え方はすまい。「旅行に行きます」とか「仲の良い友人と飲みに行きます」みたいなつまらない雑談みたいな展開になるのは目に見えている。

 ここで急に視点が変わって面接を受ける側の人へのアドバイスになってしまうが、この「仲の良い友人と飲みに行きます」という答えをしてしまうのは非常に危ない。偶然この場に若い社員から敬遠されている老害の役員なんかが同席していると、入社後に「そういえば彼(彼女)はストレス解消に飲みに行くのが好きだと言っていたな。ひとつ誘ってみるか」と執拗な飲みの誘いを受けてしまうことになり、甚大なストレス被害を被るからである。こちらは『仲の良い』友人と飲みに行くのがストレス解消になると言っているのに、彼の頭の中では都合良くその部分がカットされているのである。

別に手越君辞める必要ないんじゃね?と39歳一児の父が言ってみる

 正直ジャニーズのこともよく知らんし、手越君についても、嫁さんが毎週日曜日の夜にイッテQを見ているのを横目で見るくらいの接点しかないのだが、彼に対しては比較的良い印象を持っている。飽くまで個人的なイメージでしかないが、顔も格好良く、要領よく何でも器用にこなせるし、愛嬌があって年上にも好かれるという非の打ち所のない青年ではないか。できることなら彼と人生入れ替わりたい気持ちでいっぱいである。
 
 40歳手前のおっさんにいきなり入れ替わりを提案されても本人はちっとも嬉しくないだろうが、この度手越君は諸般の事情によりジャニーズをお辞めになられると聞いたので、僕なりに思うことを書いていきたい。
 
 漏れ伝え聞くところによれば、手越君は緊急事態宣言下であるにもかかわらず、連日連夜、安倍総理夫人などの綺麗なお姉ちゃんを従えて飲み歩いてことが問題視され、所属事務所のジャニーズから処分を食らった、ということである。世の中的には褒められた行動ではないし、清く正しく美しい青少年育成を標榜しているジャニーズという組織からすれば大問題なのだろうが、これで手越君のイメージが傷つくのかと言われればそうでもない気がする。
 
 毎晩お姉ちゃんを連れてパーティー三昧なんてことは、手越君ならいかにもやってそうな雰囲気だし、それどころか、「緊急事態宣言だかなんだか知らないけど、俺はいつだって自分のやりたいようにやるよ」という彼のスタイルは、いちいち周りの人の反応を気にしながら小市民的人生を歩んでいる僕のような男からしたら、むしろ羨ましいという思いしかない。普通の人なら許されないような言動でも、こいつなら「まあ仕方ない」で許されてしまうキャラというのはどの業界にもいるものだ。手越君というのはそういうキャラに当てはまるのだろうと思っていた。
 
 今回たまたま週刊誌に撮られてしまった問題行動についても、実はこれはこれで彼なりに自粛した結果であるという考え方はできないだろうか。コロナ以前の手越君は文字通り毎晩夜の街を飲み歩いていたが、緊急事態宣言が出てからは3日に1回にしてました、というのも考えようによっては立派な自粛であり、行動変容である。普段は会社と家を往復するだけの毎日だが、我慢できなくなって一晩だけ寿司屋に行ってしまった僕の方が叩かれるべき存在なのではないだろうか。
 
 別にここまで強引に手越君の弁護をする義理もないのだが、こんなことくらいでジャニーズを辞めるほどのことでもないんじゃないかという個人の感想である。まあ手越君もこういう結末になることを承知の上で敢えて飲み歩いていたという話もあるし、余人が口出しするような話でもないのかもしれない。
 
 やってしまったことは仕方がないので、いつか晴れてフリーな立場となった彼と飲みに行ってみたい。おそらくお互い1ミリも話合わないだろうけど。…娘が大きくなったら一緒に来てもらおうかな。
 

俺には在宅勤務とか無理だわ

 「家で仕事しても生産性落ちないどころかむしろ上がってる!」とかほざいている奴もいるようだが、今は新型コロナウイルスのせいで経済活動がないに等しい手加減モードだからなんとかなってるだけで、世の中が平常モードに切り替わったら手も足も出なくなってパンクすることは目に見えているのではないか。「いやいや、仕事量は全然変わってないし」とか反論してくる人は、さぞかし生活空間の他に仕事用の静かな空間が用意できる豪邸にお住まいになられているのであろう。
 
 新型コロナウイルスが流行し始める前の時代においては、家は仕事をする場所ではなく、休んだり遊んだりするための場所であったことを忘れてはならない。そのため、家で仕事をするなどという家本来の趣旨とはズレた使い方をすると、漫画やゲームやDVDなどいった遊びや息抜きを目的としたアイテムが仕事を阻もうと容赦なく誘惑のウインクを投げかけてくるわけである。在宅ワークに成功している人は家にいてもこれらの誘惑に屈しない不屈の精神の持ち主であるということなのだろうか。いやいや、そんなに強い人間が多かったのなら、世界はこんなにダメになっていない気がする。どうせZoomのカメラには映らないところでYoutubeどうぶつの森という仕事とは全く関係ない世界が展開されているに違いないのである。

 それでも、単身で家に住んでいる人は、仕事を妨害する要素が物質だけなのでまだ良い。家族、特に子供と同居している人にとって、在宅ワークというものは単に仕事ではなく、全く違うスポーツへと変貌してしまう。向こうの方で子供が飛び回っている音や、奇声をあげて歌ったり叫んだりしているくらいならまだ可愛い方だ。さて、これから2手、3手先の展開を読むために、深く思考を巡らそうという時に、子供がノートPCのキーボードめがけてダイビングしてくるようなアクション映画顔負けの展開が15分に1回は起きるのだ。社員がみんな同じオフィスに出社していた時代は良かった。少なくともみんなが同じスタートラインに立てていたのだから。

 家が仕事をするのに適した環境であるかは、人によって大いに異なるものである。土俵が全く違うのだから、一律の評価基準を設けられては溜まったものではない。新型コロナウイルスが収束した後も、在宅勤務の継続を望む声は多くなりそうだし、都市部の満員電車を解消したら手っ取り早く国民の支持を得られそうなので、政府としてもそれを大いに奨励するだろうという嫌な予感はするが、思うに在宅勤務にも向いている人と不向きな人がいるのであって、不向きな人までいつまでも家に閉じ込めておくこともなかろうと思うわけである。

iPadの手書きメモは標準アプリが最強だと思う理由

 どうやら僕には、「メモ術」とか「ノート作成術」みたいな書籍や記事を見かけると、手に取って読まずにはいられない呪いがかけられているようだ。特に書きたいことがあるわけでもないのに、一丁前にメモやノートは作ってみたいらしい。

 そういった類の本には、必ずといって良いほど「メモやノートは絶対に手書きでなければならない」ということが力説されている。ペンや鉛筆が紙の上を滑る感触が指先を伝ってそのまま脳を刺激するのだとかそういうことが書いてある。キーボードは脳を刺激しないのでダメなのだそうだ。なるほど、道理でキーボードを使って書いているこのブログが冴えないはずである。

 とにかく鉛筆なりペンなりを手に取って、自分の頭に浮かんだことや、その日心に残ったことを、思うさま紙に書きつけるというところから最強のノート作りが始まるらしい。そこで、早速ノートとペンを手に取り、その瞬間に頭に浮かんだことをストレートに書きつけた。

「ワイヤレスイヤホン欲しい」

 ・・・なんだか最強どころか、ずいぶん頭の悪いノートになってしまったように思うのは気のせいだろうか。これでは小学生が七夕の短冊に書く内容である。ひょっとして、ノートが最強な瞬間って誰も何も書いていない新品の状態な時じゃないだろうか、という考えが頭をよぎったが、さすがにそれを書いてしまうと、さらにノートを傷つけてしまう気がするので、頭には浮かばなかったことにした。
 
 ただ思ったことをいたずらにノートに書くのは著しく紙資源を無駄にする行為のような気がする。1ページ目に「ワイヤレスイヤホンが欲しい」とだけ書いたノートはこれにて御役御免とし、替わりにiPad ProとApple Pencilを使うことにした。これらは数年前に衝動買いしてしまったアイテムだが、ろくに字も書かず、絵も描かない僕には宝の持ち腐れというやつである。決して安い代物ではないのに、なぜ購入したのか理解に苦しんでいたのだが、ここにきてようやくその解を得た。最強のノートを作るためだったのだ。

 iPadには実に様々な手書きメモ用のアプリがあるが、最強のノート作りのために投資を惜しんではいけないと、ネットで評判の主なアプリは軒並みダウンロードしてみた。それらを一通り使ったが、結局、個人的には標準のメモアプリが一番使い勝手が良いと思っている。

 その理由は、「リアルな鉛筆の書き味が再現されているから」ということに尽きる。

 Apple Pencilというのは凄いもので、これ一本でボールペン風にも万年筆風にも筆ペン風にも字を書くことができるが、僕の経験では、鉛筆風に字を書いた時に最も多くの発想が浮かぶのである(もっとも、これは当然個人の嗜好の問題なので、必ずしも万人に当てはまるものではない)。鉛筆風の書き味が使えるノートアプリとしてはNoteShelf2が挙げられるが、鉛筆特有の字のかすれ具合なんかが標準アプリとは比較にならないのだ。

 この一点のみをもって、僕は最強のノート作りのパートナーに標準メモアプリを選んだのである。まあ相変わらず内容に関しては最強の称号に程遠いが。

自粛生活期間中の運動時に自己満足感を得られるスチームスーツはどうでしょう?

 最近では新型コロナウィルスに感染することよりも、体重計に乗ることの方がよっぽど怖い。

 体重計に乗らなくても、自分の身体が段々と重くなっているのが分かる。体感的にグラム単位なんて生易しい増え方ではなく、確実にキロ単位で増えていると思う。言うまでもなく、ここ数週間続いている自粛生活の影響である。

 緊急事態宣言の発令以降、家で過ごす時間が圧倒的に増えた。無論、これは悪いことではなく、むしろ模範的な市民の行動といえるわけだが、これではどうしたって運動不足になってしまうことは避けられない。そのうえ、家の中には昨夜の夕食の残りやお菓子などが常にある状態である。自らを厳しく律していないと、ついついこれらに手が伸びてしまう。

 思えば、今の生活環境は、体重が増えるためのあらゆる好条件が揃っている。このままでは、新型コロナウイルスの感染者は抑えられても、自分の体重が指数関数的に増えてしまうことになりかねない。

 体重の増加を抑えるためには、やはり運動をするしかない。以前通っていたジムは緊急事態宣言を受けて休業してしまったので、もはやジムのマシンやプールを利用することはできない。こうなると最も原始的な手段を用いるしかなさそうである。すなわちジョギングである。これは自分の体力が続く限り、ただひたすら走り続けるというゲーム性の欠片もない運動である。まさに運動のための運動と言うべき競技である。花粉症持ちの僕としては、花粉が飛んでいる時期のジョギングは控えたかったが、このような状況になってしまっては背に腹は変えられない。

 ちなみに、厚生労働省内閣府のホームページを見ると、散歩やジョギングくらいならば感染の危険性はさほど高くないということである。なかにはジョギングすらけしからんと主張している人もいるようだが、そんなことを言ってしまったら、もう何もできなかろう。もちろんジョギングをする際には人通りの少ないコースを選び、人とすれ違いそうになったり、追い抜かしそうになった時には素早く距離をあけるよう努めることも大切である。これはジョギングというより忍者ごっこと言った方が近いかもしれない。

 ジョギングを始めるにあたって、自分が以前「スチームスーツ」なるものを買っていたことを思い出した。これを着用して運動すると発汗量が飛躍的に増すという触れ込みに釣られて思わず購入したものである。仕掛けを説明すると、袖口や裾のところがゴムで絞られている。これにより、ジョギング等により身体から発せられた熱が外に逃げずに、スーツの中に籠もるようになっており、その結果ますます発汗が促されるということのようだ。
 

 
 確かにこれを着てしばらく走っていると、5分ほどで背中や脇の下がじっとり汗ばんでくるのを感じる。さらに15分から20分走り続けていると、スチームスーツの中に汗が溜まってびちゃびちゃいうのが聞こえるような感覚がある。30分も走ってしまうと、脱水症状のような感じで頭がクラクラしてくるので、これを着てあまり長時間走ることはおすすめできない。あるいは、こまめに水分補給をすることにより、それ以上の時間走り続けられるようになるのかもしれないが、僕自身の体力的にも30分弱走れればそれで十分なので、スチームスーツを着てびっしょり汗をかくくらいを目安にジョギングをすることにしている。

 ところで、あとで調べてみると、たくさん汗をかいたからと言って、それが直接減量に結びつくということはないようである。汗をかくことによって一時的に身体から水分が抜けるので、その分の体重は目減りするが、それも水分補給をしたら元に戻ってしまうようである。また、「汗をかいてデトックス」というのも眉唾もののようで、汗の成分には大した量の毒素や老廃物は含まれていないらしい。そうなると何のためにスチームスーツを着て汗をかくのか、という哲学めいた疑問が生じてしまうが、汗の量が多い方が自分なりに頑張った感があるのは間違いない。所詮は自己満足の世界ではあるが、科学的な根拠よりも思い込みの方が効果的なこともあったりするのである。

新型コロナウィルス:満員電車はそこまで怖くない?

 長期化する自粛生活で最も辛いのはジムに行けないことである。仕事終わりや休みの日にジムで筋トレや水泳をした後にサウナに入って汗を流すというのが僕にとって数少ない楽しみだったのに、この数週間はそれさえも奪われている状態である。そのせいか早くも身体が重くてブヨブヨしてきたような気がする。そんな気がするんなら、さっさと体重計なり体脂肪計なり使って数値化すれば良いだろとも思うのだが、自粛生活で心が参っている今の自分にはとてもそんなことをする勇気がない。見た目はおっさんだが、メンタル面では10代の女子高生と変わらない乙女心を持ちつつある。

 スポーツジムは割と早い段階から新型コロナウィルスと感染源だと言われてきたが、当初はスポーツジムの何がそんなに悪いのか分からなかった。一般的に、クラスター化というのは三密の環境において起こりやすいと言われている。スポーツジムは確かに密閉はされているが、密接や密集には該当しないのではないかという疑問を持ったのである。例えば朝の通勤電車の方がよっぽど三密状態に当てはまるのではなかろうか。満員電車が良くてジムがダメだというのはちょっと理不尽すぎやしませんかねえ。。。

 その後、ライブハウスやカラオケ店なんかも感染源として取り上げられるようになり、これらとスポーツジムの共通項を考えてみると、呼吸量というか排気量というかが挙げられるのではないかと思い至った。ライブハウスで盛り上がって飛び跳ねる、カラオケで大声を出して歌う、ジムのマシンで走る等の行為をすると、呼吸が荒くなり、自然と空気を吸う量、吐く量も多くなる。そんな空間に一人でも感染者がいようものなら、そいつの吐き出した空気を周囲の10人が大きく吸い込んでしまい、その結果、感染が拡大していくといった図式なのだろう。

 一方、満員電車では三密という条件は揃っているものの、全体的な呼吸量はさほど多くない。通勤電車なんてものはみんなお行儀よく静かなもので、話し声すらあまり聞こえない。今日は電車が満員だから深呼吸をしてみようなんて人も皆無である。むしろ満員電車は空気も澱んでいて、運が悪い時には臭い人なんかもいるため、できるだけ呼吸を浅くするよう努めている人の方が多いのではないだろうか。

 僕の知る限り、今まで満員電車が原因で感染した人はいないようである。満員電車が新型コロナウィルスの温床となることを危惧する声は至るところで聞かれるが、至近距離で咳やくしゃみさえ食らわなければ、感染のリスクはそこまで高いものではないのかもしれない。

戦争に負けて政府は変わっても国民は変わらない

 緊急事態宣言が発令されたからと言って、僕自身の身体には何の異変もないので、あまり一生懸命自粛しようという気は起きない。しかし、外出時の行き先の8割を占めるジムと図書館が休業してしまっているので、休日はスーパーに買い物に出る以外の時間はほとんで家で過ごしている。つまり結果的には自粛しているのと同じである。
 
 ところで、新型コロナウイルス感染拡大の対応策として、日本政府は一貫して「行動を自粛せよ」としか言わない。自粛というのは読んで字の如く「自ら粛む」ということなので、感染拡大しないように、自分たちで考えて行動様式を改めよということなのだろう。国によっては外で遊び歩いている奴に罰金を課したり、巡回している警官が棒でぶっ叩いたりしているようなところもあるのに比べて、日本は随分生ぬるいのではないかとも思うが、現行の日本の法制度では、このくらいが国家ができる精一杯なのだということである。聞くところによると、国家が必要以上に国民の行動に口出しするのは良くない、という太平洋戦争の反省からこのようなことになっているらしい。

 良いように取れば、日本国民は国家に強制されなくても、国民ひとりひとりが自分の意思で感染が拡大しないような自律行動を取れるほど民度が高く、政府もそれを信頼しているということが言えるのかもしれない。しかし、感染拡大のための行動自粛を個々人の裁量に委ねると、個々人の間で様々な軋轢が起きてしまう。

 ある人はちょっとコンビニに買い物に出るくらいならマスクなんぞ付けなくても良かろうと思う一方、家の中でもマスクを外してはならんと思っている人もいる。電車の中で家族や友人と世間話をするくらいなんてことないだろうと思う人がいる一方、唾が飛ぶから黙ってろと怒る人もいるわけである。いずれの場合においても、前者の方が意識が低く、後者の方が意識が高いということになる。

 意識の高い人の目には、意識の低い人の行動は犯罪同様の許しがたい行為のように映るだろう。国や自治体がこうした行動を取り締まらないのならば、自分たちで取り締まるしかない思い込み、実際に意識の低い人を注意したり、警察に密告する等の行動に出てしまう過激な人もどこからともなく現れる。反論しようにも、「命が失われてもいいのか」とか「医療崩壊が起こってもいいのか」なとど言われてしまうと、どうしようもない。

 僕自身を含め、新型コロナウイルスに感染するよりも、この種のトラブルが面倒臭いから家にいる、という人も多いのではないだろうか。

 太平洋戦争中の日本の暮らしを取り上げたドラマや漫画などで、女の人が綺麗な洋服を着ていたり、おめかししていたりすると、「隣組」と称する割烹着を着たおばさんがやってきて、「戦地では兵隊さんが命をかけて戦っているのに、あなたは派手に着飾って気楽なのね」などとさんざん嫌味を言われるシーンをよく目にするが、今の状況もそれと似たようなものを感じる。

 新型コロナウイルスとの戦いはまさに戦争だ、などと実際の戦争を経験したこともないような人が大げさに騒いでいるが、隣組のようなのが自然発生するような状況では、確かに戦時中のような窮屈さを感じる。

 戦争に負けて、政府の権限は大分縮小されたようだが、俺が公権力だと言わんばかりに、政府の意向を拡大解釈し、率先して周囲を監視し、意に沿わない奴を取り締まろうと意気込む人々は相変わらず出てきてしまうようだ。

オフィス用のサンダルにOofosのリカバリーサンダルを買ってみた

 どうやら世の中にはリカバリーサンダルという大変履き心地の良いサンダルがあるらしい。マラソン選手なんかがレース後に酷使した足を休めるために履いているのだそうだ。普通のサンダルよりもかなり分厚く作られており、そのうえ衝撃吸収力の高い特殊な素材が使われているので、足腰にかかる負担が軽減されるとのことである。最近ランニングシューズの厚底化が話題になっているが、厚底化しているのは靴だけでなく、レース後に履くサンダルも同様のようだ。

 履き心地の良さというのが、これでもかというほどアピールされているので、見ているこちらも「一体どんなものなのだろう」と興味が湧いてくる。しかし、アスリートでもなんでもない平凡なサラリーマンにはオーバースペックすぎだろう、などと逡巡していたが、「リカバリーサンダルはビジネスマンのオフィスサンダルにも最適!」、「履いているだけで足の疲労が軽減される!」などという売り文句に踊らされて買うことにしてしまった。我ながらチョロい消費者である。

 そんなネットマーケティングのカモこと私が購入したのは、OofosというブランドのOoahh Sportというサンダルである。ブランド名も商品名もなんとなくふざけた感じがするが大丈夫だろうか。シラフの時ではなく、ビールを2、3杯飲んでいる時に勢いで決めた感があるが、性能は折り紙付きらしい。


 履いてみると、確かに噂に違わぬクッション性で、サンダルの中に足が沈み込むような感じがする。あまり良い例えではないが、マシュマロを踏んでいるような感覚である。普段履いている革靴から履き替えてみると、いかに革靴の底が硬いかということを実感する。

 歩いてみると、着地した時に弾むような感じがして、さながら雲の上を歩いているようである。早足で歩いてみると、サンダルの反発力がゆえに、思ったよりもスピードが出る。昔、ドクター中松という発明家の爺さんが、ジャンピングシューズなるものを発明し、しばしば自らが出演するテレビ番組でこれを履いて老体に似合わずぴょんぴょん跳ね回っていたことを思い出す。ドクター中松以外にあれを履いている人を見たことがないが、果たして世の中にどのくらい普及しているのだろうか。

 話が脱線してしまったが、リカバリーサンダルを履いて歩くのが面白いので、用もないのにオフィスの中を猛スピードで歩き回っていると、サンダルの底のあまりの柔らかさに足の踏み場を間違えてしまい、危うく足首を捻挫しそうになってしまった。

 なんのデコボコもないオフィスのフロアで捻挫して痛みにのたうち回っていても誰も同情してくれないし、おそらく労災も下りないだろうから注意が必要である。