まぬけじる日記

もうすぐ不惑を迎える男のまぬけな日常を描いた雑記です。Twitter:@manukejiru

いじめをなくすのは無理なので上手に共存する方法を考えよう

 どういう経緯で公になったのかは知らないが、小学校の先生が寄ってたかって若い先生を羽交い締めにし、無理矢理激辛カレーを食べさせるという動画がインターネット上に公開されて話題になっている。どうやら先生たちの間でいじめがあったとのことだが、最初にこの動画を見た時は、いじめ方がやけに子供じみていやしまいかと思った。どうせ大学を出たばかりで、小僧だか先生だか見分けがつかないような輩が、学生のノリでやってしまった動画なのだろうと思ったら、加害者側の先生たちは30代から40代だと言うので驚いた。40歳にもなってあんないじめ方しかできないというのは情けない話である。普段子供たちに混じって生活しているので、いじめ方まで子供っぽくなってしまうのだろうか。そもそも学校の先生というのは、子供たちに良い影響を与えることが期待されているはずなのに、逆に先生が子供達から悪い影響を与えられてどうすんだという気がする。
 
 それにしても、本来いじめとは最も縁遠い場所にいるべきとされる学校の先生たちの間にすら、いじめは存在するのである。これを見てしまうと、やはりいじめを世の中から根絶することは不可能なのだなと思わざるを得ない。残酷な話だが、いじめる側からすれば、いじめは最高に楽しくて、やりがいのあるものである。集団の中で異質なものを攻撃し、排除することは、組織に連帯感をもたらし、集団の結束を強くする。集団の構成員にとって、周囲の人々との連帯感が強まる以上の快感はない。それは卓越した倫理観を持っているはずの学校の先生をもってしても抗うことができないほどのものであるようだ。
 
 いじめられる側の人間にとってみればたまったものではないが、集団全体からすれば、1人や2人の犠牲者が出たところで、集団の結束という大正義の前には瑣末な問題である。集団の外側から「それはいじめだぞ」と指摘されるまでは、それがいじめであることにすら気付かないだろう。むしろ、集団の秩序の維持のための正義の行いとさえ考えているかもしれない。現に今回の件でも、いじめが発覚後に主犯格とされる先生が書いたとされる謝罪文のなかに「自分の行動が間違っていることに気付かなかった」という表現があるが、これは本当に正直なところであろう。いじめている側の人間は、自分が他人をいじめているという自覚がないのだ。有名人のなかにも「昔はいじめられっ子でした」と当時の体験を語る人が多くいるが、「昔、いじめっ子でした」という人が出てこないのはなぜだろうと不思議に思っていたが、いじめっ子にはその自覚がなく、成長した後も「自分はいじめとは無縁のところにいた」と思っているからなのだろう。
 
 いじめは犯罪なのだから、加害者は逮捕のうえ刑法により処罰を加えろとの意見があるが、これには全面的に賛成である。加害側に刑事罰が下る程度のダメージを与えるようないじめに対しては、学校の先生だろうが会社の経営者だろうが聖域を設けずどんどん処罰すべきである。しかし、世の中には、法律的にはクロと言えないような程度のいじめも無数にはびこっているのではないだろうか。
 
 どんなにいじめはダメだと言ったところで、世の中からこれを根絶することは不可能である。そろそろ人類はこの事実を認めて、根絶よりも共存に向けてシフトすべきである。学校や会社においても、「いじめはいけません、いじめをなくしましょう」などとお題目のように唱えるのではなく、「友達や同僚を自殺に追い込まない程度に上手にいじめる方法」とか「おいしくいじめられて逆に人気者になろう」などということを教えるべきなのではないかと考えている。また、不幸にもいじめられてしまった場合には、無理にその集団にしがみつくことはせず、即座に他の集団に移るべきである。運が良ければ、今度は新しい集団において、いじめる側に回ることができるかもしれない。