まぬけじる日記

もうすぐ不惑を迎える男のまぬけな日常を描いた雑記です。Twitter:@manukejiru

真夜中の南武線はスリル&エンターテインメントに満ちている

 JR南武線の治安の悪さというか乗客の質の低さというのはインターネット上でもしばしば取り上げられるものである。試しにGoogleに「南武線」と入力してみると、さすがにいきなりネガティブな予測は出てこないものの、その次にキーボードの「G」を押すと、「ガラ悪い」という単語が出てくるし、「K」を押すと、「客質 悪い」、「臭い」、「喧嘩」など穏やかでない単語が続々と浮かび上がってくる。
 
 どうせ何かを叩くことだけを生き甲斐にしているような口さがないネット民が、小さな瑕疵をあげつらって騒いでいるうちに、南武線に乗ったことすらない連中まで便乗してきた結果、あることないことがまことしやかに取り沙汰されているだけだろうと思っていた。しかし、先日僕が勤務している会社で、わりとガラが悪いとされている年配の社員が「俺あ、なるべく南武線には乗らないようにしてるんだ。なんかおっかねえから。」なんてことを話しているのを聞き、「この人をしてこんな風に言わしめる南武線の恐ろしさというのはどんなものなのだろう」と逆に興味をそそられてしまった。
 
 機会があったらいつか南武線に乗ってみたいものだと思っていると、案外早くその機会が訪れた。出張からの帰りに羽田空港に降り立ち、家までのルートを検索してみると、上から3番目くらいに川崎から南武線に乗るルートが表示されていた。時間は既に夜の10時を回っており、できることなら最短ルートで家に戻りたいという気持ちもあったのだが、この機を逃すと令和のうちに南武線に乗るチャンスは訪れないと思ったため、京急線に乗って一途川崎駅を目指す。
 
 同じ川崎駅といえど、京急川崎駅とJR川崎駅は徒歩5分くらいの距離がある。馬鹿笑いしている学生や、フラフラになっている酔っぱらい達の間を縫うように歩いてJR川崎駅に入ると、改札口の時点で酒の匂いが漂ってくる。南武線のホームはこれから帰宅するであろう老若男女がホームから溢れんばかりになっていた。大半の客が酒を飲んでいたようで、ホームの空気中のアルコール濃度は改札口よりもさらに高いものになっていた。
 
 やがて電車がホームに入ってきて、待っていた客は続々と電車に乗り込んでいく。僕が電車に乗ろうとした時には、どのドアからも乗るのに少し戸惑うほど乗客がすし詰めになっていた。ふと見ると、隣の車両は幾分空いていたので、そっちの方に乗ろうとしたら、車両の床にマルゲリータピザのようなものがぶちまけられており、ガラ空きになった座席には、真っ赤な顔をした酔っ払いが横たわって眠っている。おそらくこいつがマルゲリータピザの作者なのであろう。乗客たちの多くはその様子を遠巻きに、憎々しげな表情をしながら見ているが、2,3名の猛者たちは、その凄惨な光景を間近に見、刺激臭が鼻を突いてくるのにも動じず、座席を死守しているのだから恐れ入る。
 
 僕はその車両を華麗にスルーし、隣の車両に少しだけ空いているスペースを見つけることができた。車両と車両はドアで仕切られているため、隣の車両まではゲロの臭いが漂ってこない。ここに晴れて悪名高い南武線に足を踏み入れることができたのである。川崎の次は尻手といういかにも痴漢の出そうな駅名であるが、電車がこの駅を通過した頃、にわかに激しい揺れに見舞われた。久しぶりの震度4クラスの地震かと思ったら、向こうの方で、ツルツルの頭をした恰幅の良い紳士が派手に地団駄を踏みながら怒声を上げている。怒鳴られた方の紳士も何やら激昂しており、しばらく間口論が続いたが、周りの人々はそれを止めるでもなく、無視するでもなく、笑いながら眺めている。どうやらこの手の口論は夜中の南武線では珍しいことではないらしい。当事者の紳士二人は双方怒り冷めやらぬという感じで、次の駅で電車を降りていってしまった。おそらく日付が変わっても二人の熱い戦いが続くのであろう。
 
 再び車内も静まり、少しだけ混雑も緩和されたかというところに、痩せて青白い顔をした青年が乗り込んできた。彼は随分辛そうな表情で、顔をしかめながら車両のドアにもたれかかっている。やがておもむろに身体を起こしたかと思うと、口からドアに水っぽい液体を噴射し、再びドアにもたれかかってしまった。川崎駅でゲロを避けてこの車両に乗り込んだ苦労が水の泡である。ドアが彼の砲撃を一身に受けてくれたおかげで、僕を含めた乗客に一切の被害がなかったことは不幸中の幸いと言うべきか。青白い顔をした彼は、次の駅で降りていってしまったが、僕は自分が降りる乗り換えの駅まで、まだ刺激臭という二次被害に苦しまなければならなかった。

 ようやく乗り換え駅で電車を降りることができた。僕は青白い顔の男が口から発射した液体を避けながらホームに降り立つ。この20分間足らずの間に起きた数々のイベントに打ちのめされたような気持ちでホームの階段へと向かったが、先程電車を降りたはずの青白い顔の男とすれ違った。彼はまだ気持ちの悪そうな青白い顔で、ふらふらとした足取りで、先程僕が降りたドアに乗り込む。どうやら彼はまだ腹の中にゲロを隠し持っているようで、少しずつ小出しに吐いてはまた別の車両に向かっているようである。彼の背中を見送りながら、僕は「やっぱ南武線ってすげーわ」という心の声が口から漏れ出てくるのを防ぐことができなかった。
 
 こうして、今日もまた南武線の悪口がネット上にひとつ増えるわけである。