まぬけじる日記

もうすぐ不惑を迎える男のまぬけな日常を描いた雑記です。Twitter:@manukejiru

去年生まれた子供が一歳になるという奇跡

 去年生まれた娘が一歳になった。第三者の目からすると至極当たり前のことだろうが、親の立場からすると、なんだか歴史的快挙のように思えてくるから不思議である。今から書くことのうち、どこまでが一般的に通用するもので、どこまでがうちの娘固有の問題なのかは分からないが、人間というものは、なんと不完全な状態でこの世に放り出されるものかと驚きを通り越して呆れるほどである。

 まず言葉が分からないのは当然として、自由に移動することもできず、ただ転がっているしかない。目もぼんやりとしか見えないようだし、内臓もろくに発達していないので、辛うじてお母さんのおっぱいが飲める程度である。こんなことならもうしばらくお母さんのお腹のなかにいて、ある程度のことができるようになってから出てくれば良いのにとも思うが、それだと大きくなりすぎてしまって、今度は母体が出産に耐えられなくなるのだそうだ。仮に人間というものを誰かが設計したのだとしたら、とんでもない不良品ではないかと思う。返品できるものならしたいところだが、赤ん坊の表面にはどこにも問い合わせ先の電話番号はおろか、製造元の名前すら書いていないので、身近にいる大人がなんとかするしかない。世界中で効率性だの生産性だのを上げろだの言われているが、人間はスタートの時点でそれらとは対極に位置しているものなのだ。

 娘からすると僕は父親に当たるわけだが、こと子供を育てるという意味において、おっぱいが付いていないということが重大なハンデであるということに気付かされる。泣き喚いている赤ん坊をあやすのにしても、僕がどんなに面白い変顔を作ろうが、ダジャレを言おうが一向に効果がない。ほとほと困り果ててしまうが、その赤ん坊を母親がひょいと抱き上げて、乳首を吸わせるだけでぴたりと静まるのだからズルいものだ。イクメンだのなんだの言って、男の子育てを後押しするのであれば、2つくれなんて贅沢は言わないので、せめておっぱいの1つも付けてくれればもう少しスムーズに行くのではないかと思う。男が丸腰で子育てをするには少し厳しいものがある。

 それでは子供がいて大変なことばかりなのかというと決してそういうことではない。特に、人間には未知のものを知ろうとする好奇心や、昨日までできなかったことを今日はできるようになろうとする向上心が生まれながらにして備わっているものだということを知ることができたのは大きな収穫である。例えば、うちの娘はやっと歩けるかというところに達したところだが、生まれたばかりの人間が、首が据わって歩けるようになるまでには、①寝返りをうつ、②うつぶせ寝で前に進む、③ハイハイをする、④つかまり立ちをする、⑤伝い歩きをする、⑥自力で立つ、といったプロセスを経なければならない。
 
 なかにはこれらの過程を容易く行うことができる子供もいるのかもしれない。しかし、うちの娘は親に似て運動神経が悪くできているのか、上記のどの行程においても、時には泣き叫びながら、無数の失敗を重ねて次のステップを目指していた。このあたりは大人である我々が彼らを見習わねばならないところである。痛い目にあったこともあったろうが、次に進むことを決して諦めない。その光景を目の当たりにしてからというもの、ただ普通に歩いている人を見ても、「この人はとんでもない努力を重ねて歩けるようになったんだな」といちいち感動を覚えるほどである。
 
 人間を歩行に駆り立てるのは、今いる場所に留まっていては見ることができないものを見ようとする、手を伸ばしても届かないものに触れようとする好奇心である。たとえ身体的機能が万全に備わったとしても、好奇心というエンジンがない限り、ハイハイもあんよもせずに、ただそこに転がっているだけではないだろうか。